前回は「様々な人物の生き様をイメージ〜「歴史の流れと軸」が明確な戦国時代「最もイメージしやすい」戦国時代・生き生きしている武将たち〜」の話でした。
長州の討幕派を牽引した若き久坂玄瑞:朝廷から追い出された長州

小学生・中学受験生が、写真の人物を見て名前がすぐに分かったら、歴史に自信持って良いでしょう。
写真の人物は、久坂玄瑞(くさか げんずい、別名は義助)です。

久坂玄瑞なら
知ってるよ!



私は全然
知らなかったけど・・・



かっこいい
お兄さんだね!
男性から見ても「カッコいい」久坂は、女性の人気も高いでしょう。
今回は、久坂玄瑞を題材に「歴史をイメージして理解」する話です。


幕末維新で長州藩を指揮した人物の筆頭格は、木戸孝允(桂小五郎)でした。
一方で、若さと能力を爆発させて、長州藩を引っ張っていた筆頭格は久坂玄瑞でした。
長州は、上の木戸孝允・前原一誠・高杉晋作・久坂玄瑞(年齢順)たちが討幕を牽引しました。
名前 | 生年 |
木戸 孝允(桂小五郎) | 1833 |
前原 一誠 | 1834 |
高杉 晋作 | 1839 |
久坂 玄瑞 | 1840 |
他に長州からは、初代首相・伊藤博文、三代首相・山縣有朋などを輩出しました。
伊藤や山縣は、幕末維新の時期は、木戸・高杉らの子分でした。
長州藩の志士で「指導者の層」で最年少だった久坂は、「超燃える青年」でした。



我が長州藩こそが、
最高の勤王藩であり・・・



我が長州の考え方こそが、
我が国を救うのだ!
とにかく熱すぎて、極端過ぎる発想だった久坂に対して、「お兄さん」であった桂(木戸)は、



まあ、久坂よ・・・
そんなに熱くなるな・・・
このように、久坂たちを「諭した」ことでしょう。
幕末には、朝廷において「第一勢力」だった長州は猛威を振るいましたが、



ちょっと、長州の皆さんの
思想は極端すぎて・・・



朝廷としては、ちょっと
距離を取りたいのですが・・・
徳川幕府の工作が功を奏し、朝廷は一気に長州から離れてしまいました。
そして、1863年、薩摩・会津中心の公武合体派によって、長州系の公家七名が追放となりました。



おのれ・・・
こんな馬鹿なことが・・・
当然、長州側から考えれば「怒り心頭」であり、薩摩と会津に対して敵意を高めました。
歴史を具体的にイメージ「禁門の変とは?」:皇居攻撃の超禁じ手





こうなったら、薩摩と
会津の連中に、物言わせてくれるわ!
長州藩にとっては「非常事態」となったことに対し、激昂した久坂玄瑞。



もはや、薩摩と
会津と戦うしかないわ!



そして、御所におわす
天皇を長州に引き取り・・・



天皇に、我らの意思を
ご理解いただくのみ!
俄かに、久坂玄瑞ら「急進派」たちは、京へ攻め込む準備を始めました。



ちょ、ちょっと待て・・・
久坂よ・・・



相手が会津と薩摩だけなら、
まだしも、幕府もいる・・・



勝ち目がある
はずないだろう・・・
いかに雄藩の一つであり、優れた人材が多数いた長州といえども、「勝ち目はゼロ」でした。



桂(木戸)さん・・・
もうやるしかないのです・・・
本来ならば「諦める」はずですが、「熱すぎる男」久坂は絶対に諦めませんでした。



よしっ!
京へ攻め込み、会津・薩摩と戦う!
ここで、「京へ攻め込む」ことは、古来から何度も行われてきたので「いつもの事」でした。



どう考えても、
我が長州に不利な状況だ・・・
「いつもの事」でしたが、「長州が圧倒的に不利」な情勢の中、



桂(木戸)さん・・・
男子たるもの、実行が大事です!・・・



吉田松陰先生も
そう言っていました!
「吉田松陰の教え」を忠実に実行しようとしたのが、久坂でした。





とにかく
実行あるのみ!
松下村塾で、高杉晋作と共に「松下村塾の双璧」と呼ばれた久坂。
さらに、久坂は吉田松陰の妹・文と結婚していました。
安政の大獄によって、この禁門の変が起きる1864年の5年前、1859年に処刑された吉田松陰。
久坂玄瑞は、吉田松陰の「純然たる後継者」であったのでした。



もはや、御所に
攻め込むしかない!
ところが、「京へ攻め込む」までは良いとしても、久坂たちが目指したのは「御所」でした。



ご、御所へ攻め込む、だと・・・
さ、流石にそれは・・・



無理筋だ・・・
久坂、頼む、やめてくれ・・・



桂さん、事がここまできては、
僕もやるしかありません!



会津を叩き潰して、
京から排除する!



我が長州の思いを、
天子様に直接聞いていただくしかないです!
御所へ乗り込んで、「天子様=天皇に直接話して理解を求める」発想でした。
そもそも、「普通の人は天皇と会うことも出来ない」ので、「そうするしかない」と考えた久坂。



場合によっては、天子様を
長州へお連れするのだ!
こうして、1864年に禁門の変が勃発しました。



朝敵である
長州を倒すのだ!
そして、長州藩は会津・薩摩に撃退され、藩存続の危機を迎えました。



責任を
取ろう・・・
久坂玄瑞は責任を取り、25歳の若さで自決しました。
禁門の変に関する薩長の戦いを、上記リンクでご紹介しています。



幕末の歴史の流れで、
安政の大獄、七卿落ち、下関戦争・・・



色々な出来事が、
1860年頃〜1868年はあるね・・・
幕末維新の時期は、「毎年」と言うよりも「毎月大事件が起きていた」状況に近い時代でした。
ここで、



とにかく、流れを理解しながら、
色々な事件と年号を暗記!
「流れを理解しながら暗記」の姿勢は大事ですが、少しイメージしてみましょう。



イメージって、
禁門の変を?
「禁門の変」の流れを見て、状況を考えてみましょう。



久坂さんが、会津に対して
怒って、御所へ攻め込んだよね・・・
そもそも「御所」とは「天皇(陛下)がお住まいの場所」で、現代の皇居にあたります。





そっか・・・
久坂さんは、皇居に攻め込んだんだ・・・



それって、大変な
ことだよね・・・
当時、久坂たちが攻め込む先としては、会津藩の屯所(駐在していた基地)などがありました。
他には、徳川幕府関連の施設や、場合によっては大坂城(当時は大坂と表記)も考えられました。
ところが、よりによって「御所=皇居」に攻め込んだ久坂たち長州藩の藩士たち。



それって、やっては
いけない事だよね・・・
「御所=皇居を攻撃」は、日本人ならば「やってはならないこと」です。
それは当時も同じであり、それ以前の「考えてもならない」ことでした。
優れた人物であった久坂は、当然「御所=皇居攻撃」が「超禁じ手」であることは、十分に認識していました。



やってはならない、ことは
十分に分かっている・・・



分かっているが、他に
手段がないのだ・・・
「これしかない」と考えて、決行したのでした。
このように、歴史の事件・事実に対して、具体的にイメージすると、



禁門の変って、
大変な事件だったんだね・・・
当時の様子や状況がよく分かり、理解と暗記が進むでしょう。