前回は「「いとまごいに来た」阿南惟幾陸相〜「鈴木総理の顔をじっと捉えた」阿南の両の目・突然の総理大臣室への来訪・同じ軍人+侍従武官の鈴木と阿南〜」 の話でした。
阿南陸相と鈴木首相の心の会話:「暴れ馬+猛牛」暴れ回り続けた軍部

阿南惟幾ここに謹んでお詫びを
申し上げます。



この点、どうぞご了解
下さるようお願いいたします。
1945年8月14日の夜、「いとまごい」のために、総理大臣室を訪問した阿南陸相。



ウン、
ウン・・・・



長い間、本当に
有難う御座いました。
「いとまごい」に来たことを十分に理解していた、同じ軍人の鈴木貫太郎首相。
鈴木首相は、こう言って、阿南惟幾陸相をねぎらいました。
この言葉は、鈴木貫太郎首相の「心の奥底からの本心」だったと筆者は考えます。



阿南さんと今生で会うのは
これが最期・・・



鈴木さん、この阿南が
陸軍を必ず沈静化させます・・・



必ず、必ず、陸軍は
私が抑えます・・・



あとは、あとは
よろしくお願い申し上げます・・・



阿南さん、陸軍を、
あの陸軍をよくぞ抑え続けてくれました・・・



本当に、本当に
ご苦労様でした。
上の、阿南陸相と鈴木首相の「心の会話」は筆者の推測です。
陸海軍異なるとはいえ、「同じ軍人」だった阿南惟幾陸相と鈴木貫太郎首相。
大日本帝国と天皇陛下のために働き続けた二人だけの「心の中の秘密の会話」をしたのでしょう。
とにかく、満洲事変以降、「暴れ馬+猛牛」のように暴れ回り続けた「軍部という存在」。
ここで、「軍部」とは、帝国陸軍軍人と帝国海軍軍人によって組織された「人間の集団」を指します。
「人間の集団」である以上、一人一人の人間が作り上げる集団・組織であるはずです。
ところが、「昭和の軍部」という存在は、「一人一人の人間の集団」を超えた「得体の知れない存在」となっていました。
いわば、「得体の知れない巨大魔界」のような、不気味極まりない存在だったのが、大日本帝国の軍部でした。
特に、帝国陸軍中枢部において、この「得体の知れない巨大魔界」の傾向は著しく、その「巨大魔界」に入ってしまうと、全ての人物が「常軌を逸する」傾向がありました。



・・・・・
そして、終戦直前には「巨大魔界」から「超巨大魔界」に変貌しようとしていた軍部。



迫水書記官長だね。
君はまた我々の裏をかいたな。



これから、我々がどうするか、
覚えていろ!
このように、「堂々と内閣書記官長を脅迫」するほどの、異様極まりない存在になっていました。





ムンッ!



果たせるかな、
官邸へ帰った阿南陸相は、



翌八月十五日の未明、
自ら腹をかき切って自決した。



これによってまさに暴発寸前にあった
全陸軍は、



冷水を浴びせられたように
沈黙した。



阿南陸相が
自決された、だと・・・



ま、
ま、さ、か・・・・・



陸軍トップの
阿南陸相が消えてしまった・・・


当時は、大本営陸軍部を統括していた参謀総長が絶大な権限を持っていました。
その一方で、やはり「陸軍の顔は陸軍大臣」という印象も根強い状況でした。



・・・・・
「玉音放送直前」の「阿南陸相自決」は、帝国陸軍を大きく、大きく沈静化させたのでした。
そして、「大日本帝国最後の四か月」は、少し時計の針を戻し、昭和天皇の「玉音放送づくり」の話へと展開します。
「恐れ多い」極みだった昭和天皇のお声:天皇と総理大臣の格の差





阿南陸相が帰って行った後、わたしは
鈴木総理が疲れているのを知っていたので、



ひとまず私邸へ
引き上げてもらうことにした。



それより先、皇居の中では、陛下が自ら
マイクの前に立たれ、



終戦に関する詔書の録音が
取られていた。



いまのようにテープ・レコーダーが
あるわけではないので、



NHKによって
録音が準備されていた。
迫水が回想する時期には「テープ・レコーダーが登場済み」であり、現代では動画が容易に撮影できます。
ところが、1945年8月の時期は、録音するためには「NHKが登場」する必要がありました。
この「時代の違い」は、なかなか想像するのが難しいですが、現代では想像できないほど「不便な時代」でした。



陛下が、録音版に直接お声を吹き込まれる
ことについては、異論があった。



大部分の人の意見は、
恐れ多いという一語に尽きた。
現代でも、「恐れ多い」天皇陛下の存在。
当時の「恐れ多い」は「現代の一億倍以上」と考えられ、まさに「神」であり「恐れ多い極み」の存在だったのが昭和天皇でした。





軍人に対する説得は、まず、
海軍大臣が、



海軍については、
自分が責任を負う。



ことを
明らかにし、



海軍については、
自分が責任を負う。



阿南陸軍大臣もこれに倣ったが、
一般国民への詔書の伝達をどうするかが論議の焦点となった。
1941年の日米戦争開戦の時、昭和天皇は「開戦の詔書」を下しました。
この時は「開戦の詔書」という文書のみで、国民への伝達は、当時の東條英機首相が行いました。





ただ今、宣戦の御詔勅が
渙発せられました。



精鋭なる帝国陸海軍は、
今や決死の戦いを行いつつあります。
日米戦争開戦時には、昭和天皇は国民全員に対して、何かを直接述べることはしませんでした。
当時「君臨すれども統治せず」のスタンスを堅持した昭和天皇は、それらは「輔弼の内閣に任せていた」のでした。
国民、臣民の前に、「遠く姿を現す」ことはあっても、「声を聞かせる」ことはなかった昭和天皇。
その昭和天皇が「直接国民に語りかける」という、極めて異例であり、「大日本帝国初」の出来事が起ころうとしていました。



一時は鈴木総理がラジオを通じて
詔書を読み上げる案が考えられたが、



御前会議の席で、
陛下が、



この際、わたしに出来ることなら
なんでもするつもりでいる。



いつでもマイクの
前に立つ。



と言われたので、お願い申し上げよう
ということに落ち着いた。



鈴木総理が詔書を読み上げるのを聞いて、
一般国民がどこまで納得してくれるか、



また、軍と共に戦争継続を主張している右翼団体などが
総理大臣官邸その他へ押しかけてきて、



大混乱が起こることも
予想された。



陛下のお声を聞けば、
いかに右翼団体といえども、



終戦に反対することは
できないだろうし、



国民のみんなが
納得するだろうと考えた。
要するに、「鈴木総理では、国民や軍部が納得しない」状況だった1945年8月14日。
そのため、当時「神」であった昭和天皇自らが「軍部を含めた全国民に語りかける」ことに決定しました。
天皇と総理大臣の格の違いは、現代でも大きいですが、当時は「絶大な差」でした。
現代の視点から見れば、「天皇が録音して、その音声を流すだけ」だった「玉音放送」。
「玉音放送」を現代聴くと、「特別なこと」には、それほど思えません。
ところが、当時の大日本帝国国民・臣民の視点では、「超特別なこと」だった「昭和天皇の声」。
「超特別なこと」を超えて、「超超特別なこと」であり、「考えられない事態」だったのでした。


そして、いよいよ、昭和天皇は玉音放送録音へと向かいます。

