梅津総長と豊田総長「再照会」要望拒絶の東郷外相〜陸海軍トップと外相サシの会談・関東軍司令官と連合艦隊司令長官・大西瀧治郎の登場〜|ポツダム宣言から敗戦の真相51

前回は「町村金吾警視総監「必ず治安維持決行」〜「突然の」降伏と国内大混乱の懸念・梅津豊田両総長の「東郷外相」会見要請・二二六事件再勃発の恐怖〜」の話でした。

目次

陸海軍トップと外相サシの会談:関東軍司令官と連合艦隊司令長官

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敗戦時の陸海軍首脳たち:左上から時計回りに梅津美治郎 参謀総長、豊田副武 軍令部総長、迫水久常 内閣書記官長、東郷茂徳 外務大臣(国立国会図書館、別冊歴史読本 日本帝国最期の日、Wikipedia)

1945年8月13日は、後世の視点で「玉音放送」2日前でした。

本来ならば、「玉音放送」と「正式な降伏手続」の準備に入る時期であるはずでした。

ところが、まだまだ帝国政府は揉め続けていました。

連合国の正式回答:1945年8月12日

ポツダム宣言の条項はこれを受諾するも、右宣言は、天皇の国家統治の体験を変更するという要求を含んでいないことの了解をあわせ述べた日本国の通報について、我々の立場は次の通りである。

一、降伏の時から、天皇および日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項を実施するため、その必要と認むる措置をとる連合国最高司令官の制限のもと(subject to)おかれるものとする。

二、天皇は日本国政府および日本帝国大本営に対し、ポツダム宣言のもろもろの条項を実施するため、必要な降伏条項に署名する権限を与え、かつ、これを保証することを要請せられ、また、天皇は一切の日本国陸海空軍官憲および、いずれの地域にあるを問わず、右官憲の指揮下にある一切の軍隊に対し、戦闘行為を終わらせ、武器を引き渡し、降伏条項実施のため、最高司令官の要求することあるべき命令を発するように命じなければならない。

三、日本国政府は、降伏後、直ちに俘虜および日本に抑留されている者を、連合国の船舶に速やかに乗せ、安全な地域に移送しなければならない。

四、日本国政府の最終的なかたちは、ポツダム宣言に従い、日本国国民の自由に表明する意思によって決定されるものとする。

五、連合国軍隊は、ポツダム宣言に掲げられたもろもろの目的が完遂せらるるまで、日本国内にとどまることにする。

ポツダム宣言発令後、「連合国へ確認(追加条件)」し、「連合国からの通知」が来ました。

名前生年役職連合国通告への姿勢
鈴木貫太郎1868年内閣総理大臣受諾
米内光政1880年海軍大臣受諾
梅津美治郎1882年参謀総長(大本営)再照会
東郷茂徳1882年外務大臣受諾
豊田副武1885年軍令部総長(大本営)再照会
阿南惟幾1887年陸軍大臣再照会
連合国通告への政府・大本営大幹部の姿勢(1945年8月13日)

ところが、その「連合国(米国)通知」の受諾・再照会を巡って、延々と対立していました。

梅津美治郎

米国に対する再照会の問題について、
まだ少し話し合ってみたいので、

梅津美治郎

我々二人と東郷外相の
三人だけで話し合う機会を作ってくれないか。

この中、「東郷外相との面談」を望んだ陸海軍統帥部総長である梅津参謀総長・豊田軍令部総長。

迫水久常

・・・・・

「軍の指揮権」を有した梅津総長・豊田総長の影響力は、「帝国陸海軍そのもの」でした。

この点では、阿南陸相と米内海相とは、ある意味では「別格」の存在だった陸海軍統帥部総長。

しかも、梅津参謀総長は、前年(1944年)まで関東軍司令官を務め、「帝国陸軍の根幹」にいました。

「関東軍」とは、満洲を守っていた軍隊で「泣く子も黙る関東軍」と言われた存在でした。

さらに、豊田軍令部総長は、直前の1945年5月まで連合艦隊司令長官でした。

いわば、権限において「陸海軍統帥部長」だけでなく、実際に「最前線で陸海軍を統帥」していた二人。

迫水久常

梅津総長、豊田総長が
東郷外相と会って話したい、と言っておりますが。

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「大日本帝国最後の四か月」(迫水久常著、新教育紀行)
大日本帝国最後の四か月

東郷外相が会談を拒否するのではないか、
と思いながら、外務省へ電話をしたら、

東郷茂徳

良いでしょう。
お会いしましょう。

大日本帝国最後の四か月

意外にも会ってみようという
言葉が返ってきた。

おそらく、

東郷茂徳

話しても、
溝は埋まらなそうだが・・・

東郷茂徳

統帥部長の面会要請を
拒否、はまずいだろう・・・

東郷外相は、このように冷静に判断した、と思われます。

大いなる緊張感の中、梅津総長・豊田総長・東郷外相の三者会談となりました。

普通に考えれば、「軍の力を背景」とする二総長を「一人で相手」は、どう考えても「分が悪い」です。

この時、東郷外相もまた「生命懸け」で、降伏への道を切り開こうとしていたのでしょう。

梅津総長と豊田総長「再照会」要望拒絶の東郷外相:大西瀧治郎の登場

新教育紀行
1945年敗戦時の東京(Wikipedia)

米軍の大空襲によって廃墟のようになっていた、当時の東京。

いよいよ「降伏受諾」の時期が近づき、梅津総長・豊田総長と東郷外相は面と向かって話します。

大日本帝国最後の四か月

午後九時過ぎから、首相官邸の
中の閣僚室で、三者の会談が始まった。

大日本帝国最後の四か月

私は、部屋の中の空気を
少しでも和らげようと思い、

大日本帝国最後の四か月

とっておきの紅茶やウィスキーなどを
持ち出して、もてなしたが、

迫水久常

どうぞ
・・・

梅津美治郎

このままでは、
我が国は崩壊してしまう!

豊田副武

なんとしても、
連合国に再照会を!

大日本帝国最後の四か月

二人の軍の首脳は、何度も再照会論を
切り出して、東郷外相に食い下がり、

大日本帝国最後の四か月

紅茶やウィスキーには
一切手をつけない。

迫水久常

ここは、なんとか良い形で
話し合いを終わらせたい・・・

一生懸命「場を和ませよう」とした、迫水書記官長でしたが、

東郷茂徳

ですから、
それはもはや逆効果です。

梅津美治郎

我が国の国体は
どうなるのですか!

豊田副武

このまま降伏など
出来ないです!

両者の話し合いは、全く「和みの気配」すら見せない状況でした。

迫水久常

・・・・・

大日本帝国最後の四か月

私はずっと同席していたわけではなく、
時々座を外しては、

大日本帝国最後の四か月

書記官長室との間を
往復した。

東郷外相・梅津総長・豊田総長らは、迫水書記官長の20歳ほど上の方々でした。

そうした「年齢差」もあり、少し遠慮をして「席を外したり」した迫水久常。

迫水久常

この話し合い、
どうなる?

内心、ヒヤヒヤしていたでしょう。

「やらないだろう」という目算があるとは言え、

梅津美治郎(架空)

こんな弱腰の政府は
ダメだ!

梅津美治郎(架空)

我が帝国陸海軍は
立ち上がるのだ

梅津美治郎(架空)

全陸軍に命ずる!
政府を転覆し、我が政権を樹立するのだ!

仮に、梅津総長が、このように全帝国陸軍に命令を下せば、大混乱になることは目に見えていました。

迫水久常

陸軍の統帥権を
握る梅津総長・・・

迫水久常

海軍の統帥権を
握る豊田総長・・・

迫水久常

この二人の動き次第では、
まだまだ何が起こるか・・・

軍部の力は圧倒的であり、少なくとも大日本帝国内であれば「やろうと思えば何でもできる」存在でした。

梅津美治郎

そこをなんとか、
再考して頂きたい。

豊田副武

東郷さん、一緒に我が帝国の
国体を護りましょう。

大日本帝国最後の四か月

二人の首脳は辞を低くして
東郷外相の本意を促しているようだったが、

大日本帝国最後の四か月

東郷外相は、特長ある鹿児島訛りで、
簡単に、

東郷茂徳

そういうことは
出来ません!

大日本帝国最後の四か月

と言うだけで、
取りつくシマがなかった。

梅津美治郎

・・・・・

豊田副武

・・・・・

東郷茂徳

・・・・・

大日本帝国最後の四か月

三者会談は、どこまでも
平行線をたどっている感じだったが、

大日本帝国最後の四か月

いつ終わるとも
しれない。

大日本帝国最後の四か月

とうとう三時間以上も費やし、
十四日の午前零時近くになった。

ひたすら「平行線」のまま、三人は「同じ主張」を繰り返し、3時間以上も続けました。

大日本帝国最後の四か月

その頃、海軍軍令部次長の
大西瀧治郎中将がやってきて、

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大西瀧治郎 軍令部次長(Wikipedia)

ここで、大西瀧治郎軍令部次長が登場しました。

「特攻隊の生みの親」と表現されることが多い大西瀧治郎。

神風特別攻撃隊に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

当時、帝国海軍航空隊の中心人物であり、「超強硬派」だった大西瀧治郎。

大西瀧治郎は、山口多聞と海兵同期である話を、上記リンクでご紹介しています。

大西瀧治郎

豊田軍令部総長に
面会したいのですが・・・

迫水久常

大西次長、
こちらへどうぞ。

三者会談の最中に、大西軍令部次長が乗り込んできました。

「次長」は、もちろん「総長の下・補佐役」でした。

その一方、軍の力が極めて強かった当時、参謀次長・軍令部次長は、かなり強力な立場でした。

「陸相、海相、外相除く大臣より権限が強力」と表現しても誤りではなかった参謀次長・軍令部次長。

大西瀧治郎

それでは、
総長の元へ・・・

軍部の超大物たちが集結する中、時刻は1945年8月14日0時となりました。

同年8月15日正午12時の玉音放送まで、あと残り一日半。

この時点の36時間後には、大日本帝国の運命を決定し、ある意味で世界の歴史を変えた玉音放送となります。

大日本帝国は、ギリギリまで、このような混沌とした状況にあったのでした。

次回は上記リンクです。

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