「世界最高の文化の大都」だったパリ〜大久保が震えた「西郷下野+木戸下野」・「台湾出兵総大将」西郷従道・「落城した会津城」の記憶・陸軍トップの西郷・大山コンビ〜|山川捨松42・人物像・エピソード

前回は「覇王ナポレオン止めたウェリントン元帥〜「世界の中心」欧州と英仏 ・「思い出したくない記憶」が蘇る咲子・「仇敵」との結婚の可能性〜」の話でした。

山川咲子(捨松)(Wikipedia)
目次

「世界最高の文化の大都」だったパリ:陸軍トップの西郷・大山コンビ

新教育紀行
パリ(新教育紀行)

現代でも「華の都」であり、「美しい大都市」筆頭格のパリ。

筆者は、中学三年生の頃からフランス語を学び、大学生の時に初めてフランスを一人で訪問しました。

大学生の筆者

これがフランス、
パリか・・・

シャルル・ドゴール空港からシャトルバスでパリに向かい、パリに到着した筆者。

写真では知っていましたが、東京とは全く違う風景に対し、「ある種の驚き」を感じました。

New Educational Voyage
左上から時計回りに、山川咲子、大山巌、西郷従道、山川浩(国立国会図書館、Wikipedia)

浩と咲子が、話している「結婚相手候補・大山巌」が留学していたフランス。

この頃の日本人にとって、パリは「華の都」程度ではなく「世界最高の文化の大都」でした。

当時の日本人にとって、「政府高官でフランス留学経験者」は、「隔絶した最高の相手」でした。

山川咲子

・・・・・

ところが、その「最高の相手」は、「憎んでも、憎みきれない薩摩」出身でした。

山川咲子

・・・・・

しばらく、黙ってしまった咲子。

山川浩

・・・・・

浩もなんとも言えなくなり、黙ってしまいました。

山川咲子

大山巌さんって、
陸軍卿の?

ようやく、咲子は気持ちを取り戻し、「相手が何者か?」を確認しました。

山川浩

うむ・・・

軍人が尊ばれ、現代のように「コロコロ大臣が変わる」時代ではなかった当時、

明治初期の日本人A

現職の参議・卿(大臣)は、
大人なら知っている!

一定のレベルの大人であれば、「参議・卿」は常識でした。

就任年名前
1873年山縣有朋(一度退任後、再任)
1878年西郷従道
1880年大山巌
初期の陸軍卿と陸軍大

後に「陸軍の法皇」と呼ばれる山縣有朋の後に、西郷従道が陸軍卿に就任しました。

1880年に陸軍卿に就任した大山巌は、浩たちが語っている1882年当時「陸軍卿2年目」でした。

山縣は軍政側の人物だったこともあり、度々不祥事を引き起こすことでも有名でした。

そのため、「西郷+大山コンビ」が指揮官としての陸軍のツートップでした。

この後「陸軍大臣」と名称が変わり、1891年まで務めました。

つまり、およそ12年間もの間「陸軍のトップ」だったのが大山巌でした。

この事実は、当時、大山巌が陸軍のみならず、「政府の超中核」であったことが分かります。

「落城した会津城」の記憶

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会津戦争直後の会津城(Wikipedia)
山川咲子

・・・・・

ここで、咲子は、幼少の8歳の頃に見た、会津城の悲惨な光景を思い起こしました。

この「会津戦争直後の会津城」に対する気持ちは、現代の我々には理解し難い感情です。

飛躍しますが、仮に「理解しようと努める」ならば、以下のような比喩が一つの例となります。

「日本が戦争に巻き込まれて敗戦し、皇居が攻撃されて廃墟となった光景」です。

これは、日本人としては「絶対に見たくない」光景です。

山川咲子

・・・・・

その「絶対に見たくない」光景を、わずか8歳の小学二年性の頃に「見せられた」咲子。

山川咲子

・・・・・

どうにもこうにも「沈黙せざるを得ない」咲子でしたが、

山川咲子

「薩摩」のことは
お兄さんも分かっている・・・

山川咲子

それでもなお、私に
伝えるのは、理由があるはず・・・

こう考えた咲子は。「仲介者」を気にしました。

現在も、結婚に関しては、「媒酌人」や「仲介者」がいることがあります。

当時は、結婚に対する意識が現代と全く異なり、「仲介者は必ずいた」時代でした。

山川咲子

どなたの
ご紹介なの?

山川浩

・・・・・

ここで、ちょっと黙ってしまう浩。

山川浩

・・・・・

なんとも「微妙な空気」の中、「言いたくない」浩でしたが、言わざるを得ませんでした。

山川浩

実は、西郷従道
参議・農商務卿だ・・・

新教育紀行
西南戦争(仏紙ル・モンド)(Wikipedia)
山川咲子

西郷参議、
そうなの・・・

当時も現代も、「西郷」と言えば「西郷隆盛」でした。

ところが、有名な「西郷」は、わずか5年前に西南戦争を引き起こして「賊軍」として戦死。

浩と咲子が話している「西郷」は、西郷従道であり参議・農商務卿でしたが、そもそも軍人でした。

上の「陸軍大臣の表」の通り、大山巌の前任陸軍卿は西郷従道であり、陸軍に極めて強い影響力を持っていました。

大久保が震えた「西郷下野+木戸下野」:「台湾出兵総大将」西郷従道

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薩摩藩出身の政治家・軍人:左上から時計回りに、西郷隆盛、大久保利通、西郷従道、桐野利秋(Wikipedia)

1873年、「征韓論争で西郷が下野」と言われることが多いですが、本質は単なる「政争」でした。

大久保利通

今は、外国と
戦争などしている場合ではない!

大久保利通

我が国は一切戦争など
せず、内治に専念すべき!

西郷隆盛

おいどんは、
政府を去るごわす・・・

「内治優先」と主張したと伝えられる大久保でしたが、その翌年、台湾出兵に踏み切りました。

台湾に漂流した日本人54名が、台湾で殺害された事件に対して、

大久保利通

な、なにっ!
我が国民を殺害、だと!

大久保利通

台湾を
攻撃するのだ!

こうして、台湾出兵を強行しようとした大久保は、どう考えても矛盾していました。

1874年のことで、前年に「出兵すべきではない」と言っておきながら、「舌の根も乾かぬうち」でした。

木戸孝允

大久保君!
それは違うだろう!

これに対して、烈火の如く激怒した木戸。

木戸孝允

私は参議を
辞職する!

木戸は、大久保率いる政府に「怒りの辞表」を叩きつけて下野しました。

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明治維新の立役者たち:左上から時計回りに西郷隆盛、大久保利通、岩倉具視、木戸孝允(国立国会図書館)
大久保利通

今の状況で木戸さんが
下野、は極めてまずい・・・

大久保利通

吉之助さぁと
木戸さんが組んだら・・・

仮に「西郷+木戸vs大久保+岩倉」ならば、どう考えても「分が悪い」大久保。

「政府内の力関係」は別の評価として、世間の評価では、圧倒的に「西郷+木戸」が強力でした。

大久保利通

・・・・・

ここで、大久保は躊躇しましたが、

西郷従道

我が国民を50名以上
殺害されて、黙っていられるか!

「台湾出兵」総大将だった西郷従道は、独断で台湾に攻め込みました。

この「独断」には諸説ありますが、「西郷従道が政府を台湾出兵に引きずった」のは事実でした。

西郷従道

よしっ!
台湾を攻撃だ!

そして、3000名以上の日本軍を率いて、「維新政府初の外国との戦争」の総大将となった従道。

西郷率いる軍隊は、台湾で敵を蹴散らしました。

大久保利通

よしっ!台湾を支配する
清国との話は、私自ら向かう!

その後、大久保は持ち前のド迫力と卓越した政治力で清国に迫り、この事件を上手く収めました。

つまり、当時の日本において、西郷従道は「帝国陸軍の総大将」でした。

長州の山縣有朋も有力でしたが、何といっても当時は「陸軍は薩摩」でした。

山川咲子

大山参議を紹介したのが
西郷参議なのね・・・

山川咲子

・・・・・

咲子は、当時の日本の状況において「大山+西郷」には逆らえない事実を理解していました。

山川咲子

いいわ・・・
一度会ってみましょう・・・

山川浩

!!!

山川咲子

大山さんに・・・

山川浩

!!!!!

山川咲子

まずは会ってみなければ、
分からないわ・・・

山川浩

いいのか?
咲子・・・

山川咲子

いいわ・・・
会いましょう・・・

山川浩

・・・・・

そして、咲子は、大山巌と「まずは会う」ことに決めました。

新教育紀行

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