前回は「覇王ナポレオン止めたウェリントン元帥〜「世界の中心」欧州と英仏 ・「思い出したくない記憶」が蘇る咲子・「仇敵」との結婚の可能性〜」の話でした。

「世界最高の文化の大都」だったパリ:陸軍トップの西郷・大山コンビ

現代でも「華の都」であり、「美しい大都市」筆頭格のパリ。
筆者は、中学三年生の頃からフランス語を学び、大学生の時に初めてフランスを一人で訪問しました。
大学生の筆者これがフランス、
パリか・・・
シャルル・ドゴール空港からシャトルバスでパリに向かい、パリに到着した筆者。
写真では知っていましたが、東京とは全く違う風景に対し、「ある種の驚き」を感じました。


浩と咲子が、話している「結婚相手候補・大山巌」が留学していたフランス。
この頃の日本人にとって、パリは「華の都」程度ではなく「世界最高の文化の大都」でした。
当時の日本人にとって、「政府高官でフランス留学経験者」は、「隔絶した最高の相手」でした。



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ところが、その「最高の相手」は、「憎んでも、憎みきれない薩摩」出身でした。



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しばらく、黙ってしまった咲子。



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浩もなんとも言えなくなり、黙ってしまいました。



大山巌さんって、
陸軍卿の?
ようやく、咲子は気持ちを取り戻し、「相手が何者か?」を確認しました。



うむ・・・
軍人が尊ばれ、現代のように「コロコロ大臣が変わる」時代ではなかった当時、



現職の参議・卿(大臣)は、
大人なら知っている!
一定のレベルの大人であれば、「参議・卿」は常識でした。
| 就任年 | 名前 |
| 1873年 | 山縣有朋(一度退任後、再任) |
| 1878年 | 西郷従道 |
| 1880年 | 大山巌 |
後に「陸軍の法皇」と呼ばれる山縣有朋の後に、西郷従道が陸軍卿に就任しました。
1880年に陸軍卿に就任した大山巌は、浩たちが語っている1882年当時「陸軍卿2年目」でした。
山縣は軍政側の人物だったこともあり、度々不祥事を引き起こすことでも有名でした。
そのため、「西郷+大山コンビ」が指揮官としての陸軍のツートップでした。
この後「陸軍大臣」と名称が変わり、1891年まで務めました。
つまり、およそ12年間もの間「陸軍のトップ」だったのが大山巌でした。
この事実は、当時、大山巌が陸軍のみならず、「政府の超中核」であったことが分かります。
「落城した会津城」の記憶





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ここで、咲子は、幼少の8歳の頃に見た、会津城の悲惨な光景を思い起こしました。
この「会津戦争直後の会津城」に対する気持ちは、現代の我々には理解し難い感情です。
飛躍しますが、仮に「理解しようと努める」ならば、以下のような比喩が一つの例となります。
「日本が戦争に巻き込まれて敗戦し、皇居が攻撃されて廃墟となった光景」です。
これは、日本人としては「絶対に見たくない」光景です。



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その「絶対に見たくない」光景を、わずか8歳の小学二年性の頃に「見せられた」咲子。



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どうにもこうにも「沈黙せざるを得ない」咲子でしたが、



「薩摩」のことは
お兄さんも分かっている・・・



それでもなお、私に
伝えるのは、理由があるはず・・・
こう考えた咲子は。「仲介者」を気にしました。
現在も、結婚に関しては、「媒酌人」や「仲介者」がいることがあります。
当時は、結婚に対する意識が現代と全く異なり、「仲介者は必ずいた」時代でした。



どなたの
ご紹介なの?



・・・・・
ここで、ちょっと黙ってしまう浩。



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なんとも「微妙な空気」の中、「言いたくない」浩でしたが、言わざるを得ませんでした。



実は、西郷従道
参議・農商務卿だ・・・





西郷参議、
そうなの・・・
当時も現代も、「西郷」と言えば「西郷隆盛」でした。
ところが、有名な「西郷」は、わずか5年前に西南戦争を引き起こして「賊軍」として戦死。
浩と咲子が話している「西郷」は、西郷従道であり参議・農商務卿でしたが、そもそも軍人でした。
上の「陸軍大臣の表」の通り、大山巌の前任陸軍卿は西郷従道であり、陸軍に極めて強い影響力を持っていました。
大久保が震えた「西郷下野+木戸下野」:「台湾出兵総大将」西郷従道


1873年、「征韓論争で西郷が下野」と言われることが多いですが、本質は単なる「政争」でした。



今は、外国と
戦争などしている場合ではない!



我が国は一切戦争など
せず、内治に専念すべき!



おいどんは、
政府を去るごわす・・・
「内治優先」と主張したと伝えられる大久保でしたが、その翌年、台湾出兵に踏み切りました。
台湾に漂流した日本人54名が、台湾で殺害された事件に対して、



な、なにっ!
我が国民を殺害、だと!



台湾を
攻撃するのだ!
こうして、台湾出兵を強行しようとした大久保は、どう考えても矛盾していました。
1874年のことで、前年に「出兵すべきではない」と言っておきながら、「舌の根も乾かぬうち」でした。



大久保君!
それは違うだろう!
これに対して、烈火の如く激怒した木戸。



私は参議を
辞職する!
木戸は、大久保率いる政府に「怒りの辞表」を叩きつけて下野しました。





今の状況で木戸さんが
下野、は極めてまずい・・・



吉之助さぁと
木戸さんが組んだら・・・
仮に「西郷+木戸vs大久保+岩倉」ならば、どう考えても「分が悪い」大久保。
「政府内の力関係」は別の評価として、世間の評価では、圧倒的に「西郷+木戸」が強力でした。



・・・・・
ここで、大久保は躊躇しましたが、



我が国民を50名以上
殺害されて、黙っていられるか!
「台湾出兵」総大将だった西郷従道は、独断で台湾に攻め込みました。
この「独断」には諸説ありますが、「西郷従道が政府を台湾出兵に引きずった」のは事実でした。



よしっ!
台湾を攻撃だ!
そして、3000名以上の日本軍を率いて、「維新政府初の外国との戦争」の総大将となった従道。
西郷率いる軍隊は、台湾で敵を蹴散らしました。



よしっ!台湾を支配する
清国との話は、私自ら向かう!
その後、大久保は持ち前のド迫力と卓越した政治力で清国に迫り、この事件を上手く収めました。
つまり、当時の日本において、西郷従道は「帝国陸軍の総大将」でした。
長州の山縣有朋も有力でしたが、何といっても当時は「陸軍は薩摩」でした。



大山参議を紹介したのが
西郷参議なのね・・・



・・・・・
咲子は、当時の日本の状況において「大山+西郷」には逆らえない事実を理解していました。



いいわ・・・
一度会ってみましょう・・・



!!!



大山さんに・・・



!!!!!



まずは会ってみなければ、
分からないわ・・・



いいのか?
咲子・・・



いいわ・・・
会いましょう・・・



・・・・・
そして、咲子は、大山巌と「まずは会う」ことに決めました。

