前回は「西郷従道の想定外の仲裁「賊同士仲良く」〜西南戦争の賊将・西郷隆盛・「薩賊の超中心人物」大山巌・幕末から維新への因縁「会津と薩摩」〜」の話でした。

賊・西郷隆盛たち西郷家四兄弟の肖像:西南戦争と戊辰戦争で戦死

西郷従道はっはっは!
おいどんも「賊」の一味ごわす!



「賊」となった西郷隆盛の
弟ごわす!



おいどんも大山どんも
「賊」西郷隆盛の親族・・・



ならば、「賊」同士
仲良うしようではありませんか!



!!!!!!!
山川浩の妹・咲子と、自身の従兄弟・大山巌の結婚話の「仲裁に入った」形の西郷従道。
「仲裁」というよりも、浩にとっては「乗り込んできた」印象が強い中、思わぬ発言が飛び出しました。



・・・・・


西郷従道は、西郷隆盛の弟でした。
| 名前 | 生年 | 1882年時点の状況 |
| 西郷吉之助(隆盛) | 1828 | 戦死(1877,西南戦争) |
| 西郷吉二郎 | 1833 | 戦死(1868,戊辰戦争) |
| 西郷信吾(従道) | 1843 | 参議・農商務卿 |
| 西郷小兵衛 | 1847 | 戦死(1877,西南戦争) |
西郷隆盛が長兄である、西郷家には、四兄弟三姉妹の七人兄妹でした。
西郷従道は、自身のことを「信吾」と呼んでいた説がありますが、従道で通します。
そして、上の表は、西郷隆盛兄弟の1882年時点の状況です。
西郷従道以外の三兄弟は、当時既に、皆戦死していました。
早期に戦死してしまった次男・吉二郎は、戊辰戦争中「奥羽列藩同盟の死闘」で戦死しました。
「明治維新最大の英雄」となり、岩倉使節団が不在の留守政府では「事実上の首相」だった西郷隆盛。
いわば、明治維新直後は、太政大臣・三条実美は「お飾り」で「西郷政権」の時期がありました。
ところが、明治六年の政変(征韓論、1873年)で下野した西郷。
この事件は、教科書などでは「征韓論争」と呼ばれますが、事態の本質は「政争」でした。
つまり「政治の戦争」で敗北した西郷。



おいどんは、
政府を去るごわす・・・
そして、「明治政府の顔」であった西郷は鹿児島に帰ってしまいました。



・・・・・
ところが、「明治政府の顔」であり「鹿児島の顔」であった西郷の下野。
西郷の下野は、西郷に留まりませんでした。





大久保は
信じられんことをする!



岩倉さんも大久保も
滅茶苦茶だ!
西郷隆盛に続き、江藤新平・後藤象二郎・板垣退助・副島種臣らが一斉に下野しました。
この「明治六年の政変」に関する、社会の問題の話を上記リンクでご紹介しています。



た、大変なことに
なってしまった・・・
明治政府の「頭脳派」がゴッソリ消えてしまい、明治政府中核の政治力は半減しました。
さらに、西郷下野は「旧薩摩藩士たちに絶大な影響」を与えました。



私も西郷先生に
従って鹿児島へ!



私も、大久保たちとは
一緒にいられません!
旧薩摩藩の中では圧倒的に人気があり、「薩摩の神」となっていた西郷。
そのため、桐野ら大部分の旧薩摩藩士たちも、西郷と一緒に自主的に下野したのでした。



・・・・・
この頃、「大久保派」は旧薩摩藩士の中で「10%に満たない」程度の人数だったと思われます。
明治政府の軍部はゴッソリいなくなり、明治政府の軍部は「ガラガラ」になってしまいました。
つまり、「明治六年の政変」によって、政治力と軍事力が半分以下になった明治政府。



こ、これは・・・
だ、大丈夫か・・・
「鋼鉄の精神」を持つ岩倉具視も、当時は愕然としたことでしょう。
そして、西郷隆盛は私学校を設立し、廃藩置県後の旧薩摩・鹿児島は独立国のようになりました。



明治政府に
尋問の議あり!
下野して4年後の明治10年(1877年)、西郷一党は、ついに決起しました。
「賊の一味」西郷従道の説得と浩の答え:靖国神社に祀られぬ西郷隆盛





西郷一党は
賊である!
西郷決起に対して、異様なほど迅速に大久保が動きました。



西郷とその一党は
全て天子様に叛逆する賊である!
「昔の兄貴分」であった西郷隆盛を早々に「賊指定」して、潰しにかかった大久保。
このあたりが、大久保が「極めて不人気」の理由の一つです。
大久保としては、



吉之助さぁを賊にするのは
なんとも・・・



だが、そうしなければ、
西郷一派に共鳴する、不平士族が・・・



大勢の不平士族が西郷軍に
加わり、我らは転覆してしまう・・・
「冷酷な大久保」ですが「やむを得なかった」のが、当時の実態でもありました。
実際、「賊に指定」した後も、



我らも
西郷先生に従います!
全国から不平士族が西郷軍に加わり、最初13,000ほどだった西郷軍は30,000ほどに膨れ上がりました。
西郷への大きな期待から、「当初の兵力から2倍以上に膨れ上がった」のが西郷軍でした。
| 西郷軍 | 政府軍 | |
| 兵力(人) | 約30,000名 | 約90,000名 |
| 戦死者(人) | 約6,800名 | 約6,400名 |
仮に、大久保が「早々に西郷=賊指定」しなければ、もっと西郷軍は増加したでしょう。


その結果も、「西郷軍敗退」の歴史は変わらなかったと思われますが、



あの世界最強の西郷軍に
勝てるのか・・・
大久保たち明治政府側は、一時は心底恐怖していたことでしょう。
「世界最強」西郷軍に対し、圧倒的な物量戦で挑んだ政府。
西郷軍の「致命的な戦略のまずさ」もあり、8ヶ月ほどの死闘の後、西郷軍は壊滅しました。



もう・・・
ここらで良か・・・
そして、西南戦争では、西郷隆盛とともに、弟・小兵衛も戦死しました。
西南戦争と川路利良に関する話を、上記リンクでご紹介しています。


そして、「明治維新最大の英雄」であり「賊」となった西郷隆盛は、靖国神社に合祀されていません。
靖国神社と西郷隆盛に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
戊辰戦争と西南戦争の結果、「たった一人残った」西郷兄弟の三男・西郷従道。



おいどんは、賊となった
西郷隆盛の実の弟・・・



もう一人の弟・小兵衛も
西南戦争で戦死し申した・・・



おいどんは、今は参議となって
政府に尽くしており申すが・・・



その実態は「賊の一味」で
ごわす!



・・・・・



あなた方のお気持ち、
おいどんは、よく分かるごわす・・・



いかがごわすか・・・
咲子さんにお伝え頂けませんか・・・



まずは、咲子さんが
(大山)巌を、どう考えるか・・・
当時、参議・農商務卿であった西郷従道に、ここまで言われては、



は、はぁ・・・
ま、まずは・・・



まずは
咲子に聞いてみましょう・・・



有難う
ごわす・・・
浩の表情は引きつりつつも、「こう答えざるを得ない」状況でした。



・・・・・
そして、浩は咲子の元へ向かうことになりました。




