前回は「白虎隊の悲劇「16歳から17歳の自刃」〜「遺体の路上放置」を厳命した新官軍・会津に執拗なまでに罰を加えた新政府・会津から僻地斗南への換地〜」の話でした。

明治初期に次々と生まれた学校たち:ミッションスクール設立の流行

1882年に帰国し、22歳の咲子(捨松)から「山川塾設立」の相談を受けた浩。
山川浩可愛い咲子には、
本当に可哀想な思いをさせた・・・


1860年に生まれた咲子は、1868年には凄惨を極めた会津城籠城戦でも小さいながら手伝いました。
この時、23歳の若者ながら、優れた山川浩(大蔵)は籠城戦を指揮しました。



咲子には絶対に
幸せになってもらわねば・・・
目の前に立っている22歳(現在の数え方)の咲子。



・・・・・



咲子が私塾か・・・
とても良いアイデアだ・・・
江戸時代末期に生まれた咲子にとって、私塾構想は「自然の流れ」でした。
その一方で、1872年に学校制度(学制)を成立した明治新政府の姿勢から真っ向反する構想でした。



学制という法制度によって
統一された学校教育をつくります!



藩校や私塾は
廃止して、小学校をつくります!
まずは、1871年の廃藩置県によって、藩校は全て消滅しました。
さらに学制が始まって10年経過し、もはや江戸期のような私塾はほとんど見られなくなっていました。





慶應義塾を
学校にして、発展させるのだ!
全国各地で学校が誕生し始めた時期で、「私塾ではなく学校」という発想でした。
1858年に私塾として生まれた慶應義塾の話を、上記リンクでご紹介しています。
| 設立年 | 学校名 |
| 1858年 | 慶應義塾 |
| 1870年 | 女子学院 |
| 1884年 | 麻布 |
| 1891年 | 海城 |
咲子が「山川塾構想」を思いついた1882年頃は、全国各地で学校が次々生まれた時代でした。
女子学院中高の前身は、すでに1870年に生まれていました。
そして、咲子と浩が会っている1882年の2年後には、麻布中の前身・東洋英和学校が設立されました。
この頃は、ミッションスクールの設立が大いに流行した時代でした。



だが、時代は
私塾ではないのだ・・・
時代は「学校や大学設立」に大きく向かっていました。
「とにかく欧化」猛推進した明治政府:大失敗した「岩倉ミッション」


1882年頃は、明治政府が急速な欧化(欧米化)を推進した時期でした。
浩と咲子が語り合っていた1882年は、「欧化の象徴」鹿鳴館を建築中でした。
鹿鳴館は、浩と咲子が話し合っていた翌1883年に完成します。



とにかく欧化、
なんでも欧化!
この頃の、明治政府の欧化主義は「欧米から学ぶ」という姿勢を超えた「異常欧化主義」でした。
「とにかく欧化、なんでも欧化」という雰囲気で、「日本らしさ」を全否定する方向にあったのでした。


我が国には、我が国なりの文化や文明がありましたが、



このままでは、
我が国も植民地にされてしまう!
当時のアジアには欧米列強が乗り込んできて、ほとんど全ての国が植民地となっていました。


日本の「兄貴分」であった清国(中国)は巨大国家であり、植民地化は免れましたが、



あの清国ですら、
大英帝国に敗北し・・・



香港を割譲させられ、主要な港を
全て押さえられた・・・
この頃の清国は、「半植民地化」された状況でした。
日本は欧米列強から不平等条約を押し付けられ、条約改正のために1871年に岩倉使節団が向かいました。


ところが、岩倉使節団は最大の目的であった「条約改正」に関して、「成果ゼロ」で帰国。



欧米各国を
色々と回ったが・・・



条約改正は
全く進展しなかった・・・



というよりも、我が国は
ほとんどまともに相手されなかった・・・
岩倉使節団は、各地で歓迎されたものの、それは表面的でした。



Japanの政府は
「子どもの使い」みたいだな・・・
どの国からも「格下扱い」された岩倉使節団。



我が国は、
こんなにも舐められているのか・・・



とにかく強国にならねば、
話にならない!
岩倉使節団の最大の成果は、「日本が世界において、格下であることを再確認した」ことだったかもしれません。



仕方ない・・・
条約改正が第一だったが・・・



「欧米各国視察」を
最大成果と発表しよう!
2年弱もの長い時間と巨額の費用を費やした岩倉使節団。
この時、咲子は岩倉たちに随行して米国留学に向かったのでした。
その岩倉使節団の「岩倉ミッション」は、「欧米各国視察」に切り替えられました。



とにかく、人を育て、
人材としなければ!
そして、明治政府の発想は「学校設立推進」に大きく舵を切ったのでした。
時代は私塾から「学校と大学」へ


| 設置年 | 大学名 |
| 1868年 | 陸軍士官学校(前身の兵学校) |
| 1869年 | 海軍兵学校(前身の海軍操練所) |
| 1877年 | 東京帝国大学(帝国大学) |
| 1897年 | 京都帝国大学 |
| 1907年 | 東北帝国大学 |
| 1911年 | 九州帝国大学 |
| 1918年 | 北海道帝国大学 |
| 1924年 | 京城帝国大学(韓国、のちに廃止) |
| 1928年 | 台北帝国大学(台湾、のちに廃止) |
| 1931年 | 大阪帝国大学 |
| 1939年 | 名古屋帝国大学 |
岩倉使節団の前に、軍幹部を育てる陸軍士官学校と海軍兵学校が設立されました。
そして、1877年には、当時「ただ一つの帝大」だった帝国大学(東京帝国大学)が設立されました。



どうやら、帝大を
さらに増やす構想が動いている・・・
この頃、陸軍の中枢にいて、歩兵大佐という重役にいた浩。
一般人と比較して、政府内部の動きを、かなり把握していました。



東京に続いて、
京都に帝大を作るとか・・・
この頃、すでに「京都帝国大学設立構想」が動いていたと考えます。



私塾はちょっと
違うか・・・
こう考えた浩は、



咲子、私塾は
とても良いが・・・



今、政府は、学校や大学設立に
奔走している・・・



私も知っているけど、
私塾は難しそう?



うむ・・・
ちょっと厳しいかもな・・・
「可愛い妹」の願いを叶えたい浩でしたが、「私塾構想」は時代の流れとは逆行していました。


