「とにかく欧化」猛推進した明治政府〜大失敗した「岩倉ミッション」・明治初期に次々と生まれた学校たち・ミッションスクール設立の流行・時代は私塾から「学校と大学」へ〜|山川捨松24・人物像・エピソード

前回は「白虎隊の悲劇「16歳から17歳の自刃」〜「遺体の路上放置」を厳命した新官軍・会津に執拗なまでに罰を加えた新政府・会津から僻地斗南への換地〜」の話でした。

山川咲子(捨松)(Wikipedia)
目次

明治初期に次々と生まれた学校たち:ミッションスクール設立の流行

新教育紀行
山川浩 陸軍歩兵大佐(Wikipedia)

1882年に帰国し、22歳の咲子(捨松)から「山川塾設立」の相談を受けた浩。

山川浩

可愛い咲子には、
本当に可哀想な思いをさせた・・・

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会津戦争直後の会津城(Wikipedia)

1860年に生まれた咲子は、1868年には凄惨を極めた会津城籠城戦でも小さいながら手伝いました。

この時、23歳の若者ながら、優れた山川浩(大蔵)は籠城戦を指揮しました。

山川浩

咲子には絶対に
幸せになってもらわねば・・・

目の前に立っている22歳(現在の数え方)の咲子。

山川咲子

・・・・・

山川浩

咲子が私塾か・・・
とても良いアイデアだ・・・

江戸時代末期に生まれた咲子にとって、私塾構想は「自然の流れ」でした。

その一方で、1872年に学校制度(学制)を成立した明治新政府の姿勢から真っ向反する構想でした。

明治政府

学制という法制度によって
統一された学校教育をつくります!

明治政府

藩校や私塾は
廃止して、小学校をつくります!

まずは、1871年の廃藩置県によって、藩校は全て消滅しました。

さらに学制が始まって10年経過し、もはや江戸期のような私塾はほとんど見られなくなっていました。

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福澤諭吉:27歳頃(Wikipedia)
福澤諭吉

慶應義塾を
学校にして、発展させるのだ!

全国各地で学校が誕生し始めた時期で、「私塾ではなく学校」という発想でした。

1858年に私塾として生まれた慶應義塾の話を、上記リンクでご紹介しています。

設立年学校名
1858年慶應義塾
1870年女子学院
1884年麻布
1891年海城
中学・高校の設立年(前身含む)

咲子が「山川塾構想」を思いついた1882年頃は、全国各地で学校が次々生まれた時代でした。

女子学院中高の前身は、すでに1870年に生まれていました。

そして、咲子と浩が会っている1882年の2年後には、麻布中の前身・東洋英和学校が設立されました。

この頃は、ミッションスクールの設立が大いに流行した時代でした。

山川浩

だが、時代は
私塾ではないのだ・・・

時代は「学校や大学設立」に大きく向かっていました。

「とにかく欧化」猛推進した明治政府:大失敗した「岩倉ミッション」

新教育紀行
鹿鳴館(Wikipedia)

1882年頃は、明治政府が急速な欧化(欧米化)を推進した時期でした。

浩と咲子が語り合っていた1882年は、「欧化の象徴」鹿鳴館を建築中でした。

鹿鳴館は、浩と咲子が話し合っていた翌1883年に完成します。

明治政府

とにかく欧化、
なんでも欧化!

この頃の、明治政府の欧化主義は「欧米から学ぶ」という姿勢を超えた「異常欧化主義」でした。

「とにかく欧化、なんでも欧化」という雰囲気で、「日本らしさ」を全否定する方向にあったのでした。

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姫路城(新教育紀行)

我が国には、我が国なりの文化や文明がありましたが、

明治政府

このままでは、
我が国も植民地にされてしまう!

当時のアジアには欧米列強が乗り込んできて、ほとんど全ての国が植民地となっていました。

新教育紀行
アヘン戦争(Wikipedia)

日本の「兄貴分」であった清国(中国)は巨大国家であり、植民地化は免れましたが、

明治政府

あの清国ですら、
大英帝国に敗北し・・・

明治政府

香港を割譲させられ、主要な港を
全て押さえられた・・・

この頃の清国は、「半植民地化」された状況でした。

日本は欧米列強から不平等条約を押し付けられ、条約改正のために1871年に岩倉使節団が向かいました。

新教育紀行
岩倉使節団(Wikipedia)

ところが、岩倉使節団は最大の目的であった「条約改正」に関して、「成果ゼロ」で帰国。

岩倉具視

欧米各国を
色々と回ったが・・・

岩倉具視

条約改正は
全く進展しなかった・・・

岩倉具視

というよりも、我が国は
ほとんどまともに相手されなかった・・・

岩倉使節団は、各地で歓迎されたものの、それは表面的でした。

米国政府

Japanの政府は
「子どもの使い」みたいだな・・・

どの国からも「格下扱い」された岩倉使節団。

木戸孝允

我が国は、
こんなにも舐められているのか・・・

大久保利通

とにかく強国にならねば、
話にならない!

岩倉使節団の最大の成果は、「日本が世界において、格下であることを再確認した」ことだったかもしれません。

岩倉具視

仕方ない・・・
条約改正が第一だったが・・・

岩倉具視

「欧米各国視察」を
最大成果と発表しよう!

2年弱もの長い時間と巨額の費用を費やした岩倉使節団。

この時、咲子は岩倉たちに随行して米国留学に向かったのでした。

その岩倉使節団の「岩倉ミッション」は、「欧米各国視察」に切り替えられました。

大久保利通

とにかく、人を育て、
人材としなければ!

そして、明治政府の発想は「学校設立推進」に大きく舵を切ったのでした。

時代は私塾から「学校と大学」へ

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市ヶ谷の陸軍士官学校(Wikipedia)
設置年大学名
1868年陸軍士官学校(前身の兵学校)
1869年海軍兵学校(前身の海軍操練所)
1877年東京帝国大学(帝国大学)
1897年京都帝国大学
1907年東北帝国大学
1911年九州帝国大学
1918年北海道帝国大学
1924年京城帝国大学(韓国、のちに廃止)
1928年台北帝国大学(台湾、のちに廃止)
1931年大阪帝国大学
1939年名古屋帝国大学
海軍兵学校・陸軍士官学校・帝国大学設置年(Wikipedia)

岩倉使節団の前に、軍幹部を育てる陸軍士官学校と海軍兵学校が設立されました。

そして、1877年には、当時「ただ一つの帝大」だった帝国大学(東京帝国大学)が設立されました。

山川浩

どうやら、帝大を
さらに増やす構想が動いている・・・

この頃、陸軍の中枢にいて、歩兵大佐という重役にいた浩。

一般人と比較して、政府内部の動きを、かなり把握していました。

山川浩

東京に続いて、
京都に帝大を作るとか・・・

この頃、すでに「京都帝国大学設立構想」が動いていたと考えます。

山川浩

私塾はちょっと
違うか・・・

こう考えた浩は、

山川浩

咲子、私塾は
とても良いが・・・

山川浩

今、政府は、学校や大学設立に
奔走している・・・

山川咲子

私も知っているけど、
私塾は難しそう?

山川浩

うむ・・・
ちょっと厳しいかもな・・・

「可愛い妹」の願いを叶えたい浩でしたが、「私塾構想」は時代の流れとは逆行していました。

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