慶應義塾中高の教育理念と歴史〜幼少から超優等生だった福澤諭吉・「慶應」に込めた思い・幕末維新の志士たちと同世代〜|慶應義塾中高1・中学校高校の肖像4・中学受験

前回は「女子学院中高の教育理念と歴史〜明治維新とミッションスクール・限定された江戸時代の女子教育・寺院での学びから寺子屋での道〜」の話でした。

目次

幼少から超優等生だった福澤諭吉:幕末維新の志士たちと同世代

New Educational Voyage
左上から時計回りに東京大学、京都大学、早稲田大学、慶応大学(Wikipedia)

前回までに、海城、麻布、女子学院中高の設立時期と時代背景を考えました。

設立年学校名
1870年女子学院
1884年麻布
1891年海城
中学・高校の設立年(前身含む)

今回は慶應義塾中高の設立時期などを考えてみます。

現代、慶應義塾大学と早稲田大学をまとめて「早慶」と呼びます。

そして、「早慶」は「私立大学の双璧」として考えられています。

New Educational Voyage
教育者 思想家 福沢諭吉(Wikipedia)

慶應といえば福澤諭吉です。

福澤諭吉は、長年「一万円札の肖像」であったので、多くの人が知っています。

現代の慶應系中高において、慶應義塾は慶應普通部、慶應中等部など様々な学校があります。

それらの全ての源流は慶應義塾です。

New Educational Voyage
福澤諭吉:27歳頃(Wikipedia)

上の写真は、福澤諭吉が27歳頃の写真です。

一般的に馴染み深い「名を挙げた後の写真」と比較して、とても若々しいです。

そして、この若い頃の福澤の顔つきを見ると、いかにも自信ありげな雰囲気です。

福澤諭吉

自分で言うのも
なんですが・・・

福澤諭吉

私はかなり
頭が良いです!

幼い頃から超優等生だった福澤諭吉は、自分自身を「頭が良い」と認識していたでしょう。

1835年、中津藩の下級藩士の家に生まれた福澤諭吉。

名前生年所属
大村 益次郎1825長州
西郷 隆盛1827薩摩
武市 瑞山1829土佐
大久保 利通1830薩摩
木戸 孝允1833長州
坂本 龍馬1835土佐
福澤 諭吉1835中津
中岡 慎太郎1838土佐
高杉 晋作1839長州
久坂 玄瑞1840長州
福澤諭吉と幕末維新の志士たちの生年

福澤諭吉は、幕末維新の志士たちと同世代で、坂本龍馬と同年に生まれました。

この時期は「もうすぐ幕末の時代」ですが、まだまだ幕府の力は強かった時代です。

新教育紀行
江戸幕府第十一代将軍:徳川家斉(Wikipedia)

1835年は、徳川幕府第11代将軍・徳川家斉の治世であり、徳川幕府は「バリバリの日本政府」でした。

福澤諭吉

剣術も勉学も
一生懸命やりました!

「藩士=武士」であった福澤諭吉は、剣術も学問も一生懸命でした。

そして、10代前半の頃には早くも頭角を表した福澤。

暗記力が非常に高く、極めて優秀な藩士でした。

慶應義塾中高の教育理念と歴史:「慶應」に込めた思い

新教育紀行
米提督 マシュー・ペリー(Wikipedia)

1853年にペリー提督が来航し、翌1854年に日米和親条約締結となります。

この1854年に、19際になる年齢であった福澤諭吉は長崎に遊学に出ました。

福澤諭吉

外国の方が
随分と進んでいるらしい・・・

福澤諭吉

もっと、もっと
勉強しなければ・・・

現代の大学生の年齢の頃、長崎に向かった福澤。

中津藩は現代の大分県であり、長崎が比較的近かったのも良い状況でした。

徳川幕府の鎖国政策の窓口

1.長崎・出島:徳川幕府の公式窓口(オランダ・中国)

2.対馬・宗氏:徳川幕府が公認・間接的関与(朝鮮)

3.蝦夷・松前氏:徳川幕府が半公認・間接的関与(蝦夷及びアイヌ)

4.薩摩・島津氏:徳川幕府は非公認だが事実上黙認(琉球・中国・東南アジア)

鎖国政策が続いていた当時、長崎は徳川幕府最高の「海外との窓口」でした。

「窓口」長崎には、中国・オランダなどからの人物・書籍が多数やってきていた当時。

そして、米国と日米和親条約を締結し、各国と同様の条約を締結したため、「学問のメッカ」でした。

鎖国に関する問題を考えるコツを、上記リンクでご紹介しています。

福澤諭吉

やはり、蘭学が
時代の最先端だな・・・

幕末までは、日本にとって「欧米と言えば、まずはオランダ」でした。

そのため、日本においては、「オランダの学問=蘭学」が最高峰でした。

そして、ある程度蘭学を学んだ福澤諭吉は、「蘭学のメッカ=適塾」に入校しました。

新教育紀行
医師 緒方洪庵(Wikipedia)
緒方洪庵

ようこそ、
適塾へ・・・

医師であった適塾は「医師養成機関」でしたが、「蘭学のメッカ」でもありました。

1855年に適塾に入塾した福澤諭吉は、持ち前の学力でメキメキ頭角を表しました。

緒方洪庵

福澤君は、
とても優秀ですね・・・

新教育紀行
適塾卒業生:左上から時計回りに大村益次郎、福沢諭吉、橋本左内、大鳥圭介(Wikipedia)

多数の人材を輩出した適塾には、全国から優等生が集まりました。

福澤諭吉

適塾の
塾頭となった!

そして、1857年、最年少22歳で適塾の塾頭となった福澤諭吉。

この事実は、福澤諭吉がいかに優秀であったかを示しています。

さらに蘭学を学び続けた福澤諭吉は、中津藩から目をつけられました。

中津藩

福澤よ、
我が中津藩江戸藩邸の皆を教えて欲しい・・・

福澤諭吉

よしっ、
若者たちを教えましょう。

そして、1858年、蘭学塾「一小家塾」で講師となった福澤。

この一小家塾が、慶應義塾の起源と言われます。

時代は、猛烈な勢いで幕末に向かっていました。

新教育紀行
桜田門外の変(Wikipedia)

1860年には、桜田門外の変で、大老・井伊直弼が白昼に暗殺される重大事件が勃発。

すでに中津藩を通じて、「徳川幕府側の人間」だった福澤は巨大な衝撃を受けました。

福澤諭吉

これは・・・
もっともっと後進を育てねば・・・

そして、咸臨丸による米国使節団の一員など重要な役職を果たした福澤。

New Educational Voyage
明治維新の立役者たち:左上から時計回りに木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通、岩倉具視(国立国会図書館)

そして、幕末を迎え、明治となる1868年を迎えました。

この1868年は「明治元年」であると同時に、旧幕府時代の「慶應四年」でした。

「徳川幕府側」であった福澤にとって、徳川幕府瓦解時、西郷や木戸たちは「敵」でした。

後に、明治時代になって、福澤は西郷を極めて高く評価するようになります。

福澤諭吉

消えてしまう
「慶應」の名前・・・

そして、徳川幕府による「慶應」という名称を大事にした福澤は、自身の学校の名称としました。

福澤諭吉

とにかく
独立自尊の精神が大事だ!

福澤諭吉

我が学校の名称は
慶應に義塾を加えた慶應義塾!

慶應義塾中学校・高校の教育目標

独立自尊

そして、小学校・中学・高校・大学を併せ持つ「私学の超巨頭」慶應義塾が誕生しました。

New Educational Voyage

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

目次