前回は「最後まで戦う姿勢固めた松平容保〜最後の「巨大な武士の光」・「武家の頂点」失った幕臣たち・征夷大将軍の矜持と慶喜の決断〜」の話でした。

「会津藩の精神」を受け継いだ捨松:凄惨極めた会津戦争

松平容保もはや、「徳川の勝利」は
ないが・・・
1868年初頭、川家の頭領・将軍であった徳川慶喜が、官軍=薩長勢力に恭順する意向を固めました。
それは、「徳川幕府の解体」と同時に、「日本という国家像の解体」につながりなりました。
もはや「徳川の時代」は終わりを告げましたが、会津や函館で戦い続ける「徳川の武士」がいました。



最後の最後まで
戦おうぞ!
会津藩主・松平容保は「最後まで戦う」ことを決意しました。



我が会津藩の
領民たちには、地獄となるが・・・
「会津23万石」が「丸ごと地獄」となることを理解していた容保は、



領民には申し訳ないが、
これが我らの生きる道、なのだ・・・
そして、江戸城で「最終決戦」を予定していた官軍は、大挙して会津に向かいました。



会津には、土佐藩の乾退助の
部隊などを向かわせましょう・・・
この頃、彗星のように登場した大村益次郎は、官軍の最高指揮官となりました。


靖国神社の中心付近には、大きな大村益次郎像が立っています。
靖国神社に関する話を、上記リンクでご紹介しています。





この板垣(乾)退助に
お任せを!
戊辰戦争の際、甲斐周辺を攻める際に遠縁の「板垣」に名前を変えた乾退助。



うぉぉぉ!
我ら迅衝隊が会津に突っ込むのだ!
後に参議となる板垣退助は、官軍の中で筆頭格の優れた将軍でした。
板垣退助と後藤新平に関する話を、上記リンクでご紹介しています。



周囲から一気に官軍たちに
攻め込まれたか・・・
もはや「集団リンチ」のような様相すら呈した、凄惨極めた会津戦争では、多数の死者が出ました。
陰惨極めた事実が多数あり、大悲劇が多数生まれた会津戦争に関しては、別の機会にご紹介します。



私の会津藩が
大変なことに・・・
「会津城内に飛来した砲弾が炸裂する」事態に藩士の身ならず、女性や女子も巻き込まれました。
さらに、藩士(男性)のみならず、女性もまた、前途を悲観して自刃する人が多数出た会津戦争。



・・・・・
目も当てられないような凄惨な事態となった会津藩にとって、「地獄の時代」となりました。
この中、山川捨松は何とか強い心を持ち続けて、明治維新を迎えました。



薩長の人は
一生恨むしかない・・・



特に薩摩は
許せない・・・
幕末の1860年に会津藩に生まれた山川捨松は、この時8歳でした。
優秀な成績で米大学卒業した山川捨松:当時の結婚に対する認識


そして、時代は江戸時代から明治時代となり、封建制度が一気に崩れました。



とにかく、欧米の最先端知識などを
一気に取り入れるのだ!
明治新政府は、米国に留学生を送り込むことを決め、山川捨松は応募して、向かいました。


1871年(明治四年)、女子の米国留学生5名の一人に選ばれたのが、山川捨松(咲子)でした。
当時は、現代よりも「遥かに遠い」米国へ渡った山川捨松は猛勉強しました。



英語も、
なにもかもたくさん勉強する!


1882年にヴァッサー大学卒業の際は、学年3位の成績で卒業し”magna cum laude”を受賞して卒業します。
この「学年3位」は、「留学生の中で」ではなく「全体で」です。
つまり、母国語が英語である米国人と真っ向から張り合って、3位を獲得した山川捨松。



頑張って、
大いなる成果を挙げたわ!
捨松は極めて優秀であり、大変な頑張り屋でした。
そして、その山川捨松の心の奥底には常に「会津藩」がありました。



あの悲惨な会津戦争を
潜り抜けて、みんな頑張っている・・・



私は、ここメリケン(米国)で
一生懸命学ぶしかない!
「会津藩の精神」を受け継ぐ者として、猛烈な勢いで勉学に打ち込んだのでしょう。


米国から帰国した捨松は、意気揚々と参内して、帰国の報告をしました。
1882年に帰国した捨松は、11年もの間米国にいたため、日本語より英語の方が得意になりました。



これからは、我が国
日本で生活する!
22歳の山川捨松は、現代ならば「若過ぎる」くらいですが、当時の社会観念は、



女性が20歳を
超えちゃうと・・・



ちょっと「婚期を逃した」
感じね・・・
「婚期」という言葉すら、あまり使われなくなった現代では、考えられない状況でした。
その中、魅力的で圧倒的経歴を持つ山川には色々な「結婚の申し出」がありましたが、



・・・ちょっと
結婚する気には・・・
縁談を断り続けた説があります。
現代の感覚ならば、「若すぎる」22歳だった捨松。
ところが、当時の感覚では「遅い」という状況であり、自由の国・米国に11年滞在した捨松にとっては、



いくら、女性だからって、
「遅い」というのは、違うのでは・・・
おそらく、当時の風習に馴染めなかったでしょう。



山川さん、
この人は、どう?



結婚相手に
ピッタリだと思うけど・・・
様々な縁談が来ましたが、



う〜ん、
ちょっと・・・
ピンと来なかった捨松は、結婚する気にはなれませんでした。
当時22歳で、「人生の半分」を米国で過ごした捨松。
「物心がつく」年齢を考慮すると、「生きてきた半分以上の時間」を米国で過ごした捨松。



帰国したのは
嬉しいけど・・・



アメリカの方が
良いかも・・・
「米国の方が良かった」と思ったこともあったでしょう。
なんとなく、「気が乗らない日々」を過ごす山川捨松でした。



