前回は「帝国政府と大本営大幹部全員を諭した昭和天皇「終戦に関する詔書の準備をして欲しい」〜「現人神」の巨大決断・陸海軍三元帥に服従命じた天皇〜」の話でした。
「終戦」閣議決定から昭和天皇御裁可へ:大元帥陛下と三名の陸海軍元帥

Wikipedia)
1945年8月14日に開催された、大日本帝国最後の御前会議。

当時、内閣書記官長(内閣官房長官)だった迫水久常は、克明に当時の状況を記録に残しました。
大日本帝国最後の四か月この御前会議が開かれる直前に、
陛下は、杉山元、畑俊六の陸軍二元帥と、



海軍の永野修身元帥の
三人を特にお召しになり、



終戦の決意を
伝えられた。
| 名前 | 生年 | 職務 |
| 昭和天皇 | 1901 | 天皇・大元帥陛下 |
| 畑俊六 | 1879 | 第二総軍司令官・陸軍元帥 |
| 杉山元 | 1880 | 第一総軍司令官・陸軍元帥 |
| 永野修身 | 1880 | 海軍元帥 |
終戦時、大日本帝国には、上の四名の大元帥・元帥が存在しました。
超越的存在だった「唯一人」の大元帥陛下は、昭和天皇でした。
上の職務にある「第一総軍司令官」は、本土決戦の「第一総軍」の司令官です。
同様に、「第二総軍司令官」は、本土決戦の「第二総軍」の司令官です。
| 軍名 | 管轄 |
| 第一総軍 | 東日本 |
| 第二総軍 | 西日本 |
上の表の通り、「第一総軍は東日本防衛」「第二総軍は西日本防衛」と役割分担がされていました。





帝国陸海軍は、朕の命令に
服従せよ。



はっ、
承知いたしました。



必ず、陸軍大臣、参謀総長の
協力を取り付けます。



私も必ず、海軍大臣、軍令部総長の
協力を取り付けます。
いわば「陸海軍の元帥」ならぬ「陸海軍の長老たち」に協力を求めた昭和天皇。
軍部が反乱を起こす可能性が高い状況だった当時、昭和天皇は、軍部の長老たちに「軍部若手の手綱を握る」ことを強く要請したのでした。



最後の御前会議が終わったのは、
ちょうど正午である。
1945年8月14日正午、御前会議が終了し、玉音放送まで「丸一日」となりました。



閣僚たちは、各々の思いを胸底に深く秘め、
皇居を退出した。



午後一時から引き続き、総理大臣官邸で
閣議が開かれることになっていた。



打ち揃って帰ってきた悪霊たちは、
午後一時カッキリ閣議室に集まった。



陛下のご決断が伝えられた後なので、
誰も異見をさしはさむ者はいない。



ここでやらなければならないことは、
ポツダム宣言を受諾することによって、



戦争を終結させる旨の
閣議決定である。



異議は
ない。



全員揃って
署名した。



・・・



陛下のお言葉によって、終戦への方向は決まっているが、
立憲政体下の責任内閣なので、



その建前から各閣僚の意思と責任
において閣議決定を行い、



かたちの上で、改めて陛下の御裁可を
受けることになっていたからである。
当時、「主権者」だった昭和天皇。
「主権者」でしたが、「明確な最終意思決定者ではなかった」のが現実でした。
あくまで「帝国政府が決定したこと」を「裁可=追認」する立場だった昭和天皇。
明確に「終戦へ」の帝国政府の手続きとして、従前通り「裁可=追認」という「建前」の流れは重要でした。



閣議決定書の署名が終わると、
直ちに終戦に関する詔書の審議が始まった。
阿南惟幾「わたしの最後のお願い」「詔書深夜発表は不測の事故発生」


ここで、「大日本帝国最後の四か月」は詔書作成の説明が続きます。
この部分も重要な点ですが、先を急ぎ、「詔書が完成した」時点に飛びます。



閣僚も皆、
詔書を了承してくれた。



こうして出来上がったのが、
あの終戦の詔書である。


終戦の詔書は、現在、国立国会図書館に保存され、国立公文書館で展示されています。
公文書館に関する話を、上記リンクでご紹介しています。



八月十四日午後八時半、
通常の裁可書類通達のルートによって、



陛下のお手元に
届けられた。



陛下はご嘉納あそばされて御名を記され、
御璽を押さしめられた。



・・・・・
これから、正式に「終戦=敗戦」し、「主権者ではなくなる」ことが明確であった当時。
昭和天皇にとっては、「大日本帝国総括者として、事実上最後の記名と御璽の押印」となりました。



これで詔書は内閣へまた回付され、鈴木総理をはじめ
各大臣が副署というサインをする。



この後、印刷局へ回され、官報の号外として
交付の手続きがとられるわけである。



昭和二十年八月十四日午後十一時、
印刷局から官報号外として発布される終戦詔書の手続きは、



滞りなく
終わった。
いよいよ、運命の昭和二十年八月十五日まで「あと一時間」となりました。



日本国内に対する作業は、全て終わりを
告げたわけだが、



次に米、英、ソ、中の四カ国にポツダム宣言を
受諾する旨の連絡を正式にとらなければならない。
ここで、「当然先」であるべきであった、「ポツダム宣言受諾の正式連絡」となりました。



この作業は外務省の担当で、
八月十日の通告と同じように、



スイス及びスウェーデンの
政府を通じ、伝達された。
| 伝達依頼国 | 伝達先 |
| スイス | 米、華(中国) |
| スウェーデン | 英、ソ |
この後に及んでも、なお、「米、英、ソ、中へ直接」ではなく、スイスとスウェーデンを仲介役とした帝国政府。
何とも、「回りくどい」姿勢を貫き続けたのでした。



連合国に対するポツダム宣言受諾の通知は、
八月十四日の夜、直ちに行われたが、



国内向けの公表は、阿南陸相の主張によって、
翌八月十五日正午まで延期されることになった。



終戦の詔書の成文が出来上がった直後、
阿南陸相は、鈴木総理以下、内閣の関係者に対して、



次のように
要望した。


Wikipedia)



日本は、いよいよ戦争を終結することになり、
連合国側にポチダム宣言受諾を通知する段階になったが、



国内向けの発表は、夜が
明けてからにしてほしい。



もし、この詔書の内容を深夜に発表したら、
国民全員はもとより、



ことに軍の衝撃は大きく膨れ上がり、
不測の事故が発生しないとも限らない。



わたしの最後の
お願いだが、



詔書の公表は、夜が明けてからにして欲しいと
思うが、いかがなものだろう。
そして、ここで、阿南陸相は、強硬に「翌日の公表」を主張し、受け入れられました。



私は、この時、
阿南陸相が、



“最後のお願いだが・・・”と言われた言葉について、
色々な感慨を抱いたのを覚えている。
阿南陸相が語った「わたしの最後のお願い」という言葉。
この言葉は確かに現実となり、阿南陸相の「最後のお願い」となりました。
現在は「終戦記念日」とする八月十五日の前日である八月十四日。
現在2026年の81年前の八月十四日は、様々な人が様々な思いを抱いて、八月十五日を迎えようとしていました。
そして、栄ある大帝国であった大日本帝国は、確実に向かっていました。
「初の敗戦」であり、「初の降伏」へと。


