前回は「ハチの巣をつっついた騒ぎの帝国陸軍〜日本放送「即座に打ち返した」米放送・いきり立つ米政府と米軍を宥める戦略・同盟通信社の強力な潜在力〜」の話でした。
統帥部長花押を無断使用した迫水久常:軍部の絶大な影響力と御前会議

歴史の授業では、「ポツダム宣言を受諾して大人しく無条件降伏した」日本と教わることが多いです。
ところが、真の歴史は「全く違う」のでした。
軍部なんで、あのような
海外放送をやらせたのか!
1945年8月13日、「玉音放送2日前」において、軍部はこのように「暴動寸前」の状況でした。





(八月)十三日の午後の閣議で、鈴木総理は
締めくくりの気持ちも込めて、





もう一度、
ご聖断を仰ぐ。



と言ったが、
内閣書記官長の私にとっては、



これをどのような方法で
具体化するかが大きな宿題になった。



四日前の八月九日、皇居の防空壕の中で
開かれた最高戦争指導会議には、



正式に陛下のご臨席を賜ったが、
この時は、ご臨席奏請の書類に必要な



梅津参謀総長、豊田軍令部総長の
花押は事前に頂いていたものを使った。





いよいよこれ(花押)を使う時には、
改めて了解を得ます。



うむ・・・・



そうして
頂きたい。



と申しておいたのに、
私は二人の了解を得ないで使ってしまった。
1945年8月9日に、昭和天皇の聖断によって、大日本帝国の降伏は「決定」しました。
この時、御前会議を開くにあたり、統帥部総長の花押が必要でした。


この事実だけでも、当時、以下に陸海軍統帥部が絶大な力を持っていたか、が分かります。



このようないきさつで、今度は
両総長の花押をいただくくことは、



事実上、不可能だと
考えた。



あの時は、無断で花押を使ったから、
今回「下さい」と言っても、



あの二人(梅津と豊田)は
断ってくるだろう・・・
誠実な人柄ながら、「やむを得ず、真にやむを得ず」梅津・豊田両総長との約束を破った迫水久常。



十三日夜、私は東郷外相と
両総長の三者会談を斡旋したり、



大西中将の来訪を受けたりして、
忙しく走り回っていたが、



その暇を縫って、鈴木総理に会い、
次のような提案をした。



もはや、この戦略で
行くしかない!
一生懸命考えた挙句、迫水書記官長は「秘策」を思いつきました。
昭和天皇「初の御前会議招集」へ:「突然のお召し」に狼狽する大臣





極めて異例のこととは
存じますが、今度の御前会議は、



陛下の方からお召しを頂くように
されたらいかがでしょう。



・・・・・



それから、閣僚の中には総理と
異なった意見の持ち主もおられるようですので、



お召しの範囲を広げ、最高戦争指導会議の
六人の構成員と四人の幹事の他に、



全部の閣僚、それにこの前と同じように
平沼枢密院議長を加えられたら如何でしょうか。



・・・・・



鈴木総理は、わたしの提案を
じっと聞いておられたが、



・・・・・
しばらく考え込む鈴木総理。



よく分かった。
君の言うとおりにしよう。



それが
一番良いようだね。



と
言われた。



鈴木総理は、夜が明けてまもない
八月十四日の午前八時、



皇居へ行ってこの旨を
陛下に奏上し、お許しを得てきた。
天皇陛下がご臨席される御前会議は、当時の大日本帝国の最高意思決定の場でした。
その一方で、戦後、昭和天皇は「御前会議は形式的だった」と自ら話しています。


この昭和天皇の独白に関しては、上記の「新歴史紀行」(別サイト、筆者が執筆)でご紹介しています。
そして、本来ならば、「天皇に開催を奏上し、お許しを得る」のが御前会議でした。
それを「天皇がお召しになる」御前会議という「初の形式」となることになりました。





まもなく宮中から、それぞれの者へ
至急参内するように、という通知があった。



閣僚たちは、その日の午前十時から
開かれる予定の閣議に出席するため、



首相官邸に
集まっていた。



陛下からのお言葉で、
ことは急を要するので、



特に服装を改める必要はない、
ということが付け加えられた。
「突然のお召し」なので、「服装は気にしなくて良い」というお達しが宮中から届きました。



八月半ばの暑い盛りなので、
軽装している者が多かった。



豊田貞次郎軍需大臣などは、
いつもの通りの開襟シャツ姿であった。



陛下からのお召しがあろうなどとは、
思ってもいなかったのだろう。



盛んに、「困った、困った」を
連発していた。



見るに見かねた首相官邸の職員の一人が
あまり上等ではないネクタイを一本見つけてきた。
現代でも「皇居へ行く」となれば、バリッとした服装である必要があります。
当時の宮中は、現代の皇居よりもはるかに格式が上でした。
そのため、「服装は気にしなくて良い」でも、宮中へ行くのに「ノーネクタイ」は出来ないことでした。
とにかく、「突然の陛下のお召し」に対して、周章狼狽していたのが、一般の大臣たちでした。



豊田軍需大臣は開襟シャツの襟を立てて、
ネクタイを結び始めたが、うまくいかない。



傍にいた岡田忠彦厚生大臣が
それを手伝って、やっと結び終えた。



私は二人の大臣の仕草を見ながら、
ほおえましく思ったことを覚えている。



・・・・・



大臣たちも一般の国民と同じように
国の苦難を受け止め、



体で体験しているのだ、という
思いがわたしの頭の中をかすめた。
時は、1945年8月14日午前8時から10時の頃でした。





直ちに宮中へ
参内せよ。
昭和天皇からの突然の「参内の要請」というよりも、「参内命令」を受けた各大臣たち。
そして、いよいよ、翌日の玉音放送へ向けて、最後の最後の御前会議となります。


