前回は「寸前に止めた陸軍「徹底抗戦発表」〜「参謀総長命令」無視の帝国陸軍・「独断専行」文化生んだ石原莞爾・「一分間がとても長い」日々〜」の話でした。
連合国回答への結論保留のまま8月14日へ:全く決まらない帝国政府

| 名前 | 生年 | 役職 | 連合国通告への姿勢 |
| 鈴木貫太郎 | 1868年 | 内閣総理大臣 | 受諾 |
| 米内光政 | 1880年 | 海軍大臣 | 受諾 |
| 梅津美治郎 | 1882年 | 参謀総長(大本営) | 再照会 |
| 東郷茂徳 | 1882年 | 外務大臣 | 受諾 |
| 豊田副武 | 1885年 | 軍令部総長(大本営) | 再照会 |
| 阿南惟幾 | 1887年 | 陸軍大臣 | 再照会 |
1945年8月13日、軍部は根強く「徹底抗戦」を叫んでいましたが、確実に敗戦に向かっていました。
軍部大本営十三日
午後四時発表。



皇軍は新たに勅令を拝し、米英ソ支四か国軍隊に対し、
作戦を開始せり。





梅津さんにあちこちにあたってもらった結果、
この発表を取り消すことになった。



新聞社や放送局へ手配して、
今、やっと措置を終わったばかりだ。
軍部の「米英ソ支(中)」というよりも「世界に喧嘩を売る」発表を寸前に止めることに成功した迫水久常。





わたしは、一度に
肩の荷がおりる感じだった。
そして、同日16 時に陸軍が「ほぼ独断」で進めていた「徹底抗戦声明」を寸前に止めた帝国政府。
「陸軍将校若手」が、帝国政府の声明発表を「強行しうる」ほど、混乱を極めていました。



閣議では、結局、意見は
統一されないままに、



翌日さらに閣議を開くことにして
散会した。
ポツダム宣言の条項はこれを受諾するも、右宣言は、天皇の国家統治の体験を変更するという要求を含んでいないことの了解をあわせ述べた日本国の通報について、我々の立場は次の通りである。
一、降伏の時から、天皇および日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項を実施するため、その必要と認むる措置をとる連合国最高司令官の制限のもと(subject to)におかれるものとする。
二、天皇は日本国政府および日本帝国大本営に対し、ポツダム宣言のもろもろの条項を実施するため、必要な降伏条項に署名する権限を与え、かつ、これを保証することを要請せられ、また、天皇は一切の日本国陸海空軍官憲および、いずれの地域にあるを問わず、右官憲の指揮下にある一切の軍隊に対し、戦闘行為を終わらせ、武器を引き渡し、降伏条項実施のため、最高司令官の要求することあるべき命令を発するように命じなければならない。
三、日本国政府は、降伏後、直ちに俘虜および日本に抑留されている者を、連合国の船舶に速やかに乗せ、安全な地域に移送しなければならない。
四、日本国政府の最終的なかたちは、ポツダム宣言に従い、日本国国民の自由に表明する意思によって決定されるものとする。
五、連合国軍隊は、ポツダム宣言に掲げられたもろもろの目的が完遂せらるるまで、日本国内にとどまることにする。
連合国回答に対する最終方針が定まらず、1945年8月13日の閣議、最高戦争指導会議は散会しました。



・・・・・
どうにも、肝心なことがなかなか決まらない、当時の大日本帝国政府でした。
現代の視点から見れば、「心配になってしまう」程の帝国政府の「なんとも言えない」状況でした。
国内治安維持への巨大懸念と内乱の可能性:鈴木貫太郎首相「重ねてご聖断を」


そして、後世の視点から見て、「玉音放送前日」の1945年8月14日の閣議となりました。



この閣議で、鈴木総理は、次のように
はっきりと自分の意見を述べた。



私は、内外の形勢が大きな変化を
見せるのを、じっと見守ってきたが、



陛下のご聖断もあり、
戦争終結の決心をしました。



今度、連合国側の回答を受け取ってみると、
受諾し難いように見える部分もありますが、



よく読んでみますと、米国は決して悪意で
書いているわけではなく、



天皇制について変更を要求しているものでは
ないように感じます。



日本と米国とでは、国情も思想も違うのですから、
文句の上で異議を唱えても始まらないし、



表現を直して欲しいと言っても、先方には
分からないだろうと思います。
鈴木首相は、「再照会」は「意図が明確に伝わる可能性がゼロ」だから「やめるべき」と言いました。



問題は、終戦になってからの武装解除や占領に際しての
先方のやり方にあると思われるが、



これについては、双方が十分用心して、ことを運ぶように
努力する必要があると思います。



国体の護持について不安のあることも
確かですが、



だからと言って、戦争を続けるのは、
危険なことです。



戦争を継続して、死中に活を求める、ことがあっても
大勢を覆すには至らないでしょう。



陛下の臣子として忠誠を近い、最後まで戦い抜くのは
当然のことですが、



陛下がご聖断をお下しになったのは、もっと
高い見地から日本という国を保存し、



国民をいたわる、という広大な思し召しによるものと
私は拝察しています。
当時の国民は、天皇の「臣民」であり、鈴木首相らは「臣下」でした。
ここで、鈴木首相は、「臣民」「臣下」とは異なる、「臣子」という、幾分特殊な言葉を用いました。



ご聖断に基づいて、私は戦争を終結
させなければいけないと考えています。



今日の閣議の模様は、ありのままを陛下に
奏上し、重ねてご聖断を賜る考えでいます。
4日前の1945年8月10日に、昭和天皇は明確に「終戦」の聖断を下しました。
聖断に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
ここで、鈴木首相は「決まらない状況」に対して、「重ねてご聖断」の戦略に出ました。



鈴木総理の、この所信表明の後にも
阿南陸相が、東郷外相に質問を始めた。





終戦への政府の方針は、大体分かったが、
軍の武装解除は、我々が自主的にやりたいと思うし、



保障占領は、少なくとも本土周辺の島だけに
してもらい、そこから本土を監視して欲しいと思うので、



もう一度、先方に申し入れて、
回答を得たいと思うが、どうだろうか。



阿南陸相の質問に対して、
東郷外相は、いつものような低い声で、こう答えた。



今更新しい条件として、
そのようなことを申し入れても、



相手は聞き入れないに
決まっています。



阿南さんの言われることは、
よく分かりますので、申し入れという形ではなく、



終戦後の話し合いの中で、
外交交渉の一部として切り出してみましょう。
ここで、「軍部に押され続けていた」帝国政府は、軍部の主張を一蹴しました。



・・・・・
この頃の阿南陸相の真意は不明ですが、とにかく「武装解除は自分たちで」の考えでした。



この後、安倍源基内相が
重大な発言をしている。


| 名前 | 生年 | 役職 |
| 鈴木貫太郎 | 1868年 | 内閣総理大臣 |
| 米内光政 | 1880年 | 海軍大臣 |
| 東郷茂徳 | 1882年 | 外務大臣 |
| 阿南惟幾 | 1887年 | 陸軍大臣 |
| 安倍源基 | 1894年 | 内務大臣 |
| 迫水久常 | 1902年 | 内閣書記官長 |
ここで、迫水書記官長と共に「若手」だった安倍源基内相が、発言をしました。



このままのかたちで終戦になれば、
国内は大混乱を起こすに決まっている。



私は内務大臣として、国内の治安に
責任が持てないかもしれない。
なんとか「終戦」にこぎつけようとしていた帝国政府。
ところが、安倍源基内相は、「治安の責任が持てない=内乱の可能性」の指摘をしました。
警察権力を握っていた内務省トップが「責任が持てないかも」と、こぼす状況となりました。
それほど、当時、「大日本帝国の降伏」は、国民(臣民)にとって「唐突極まりない」事態でした。
仮に、帝国政府が「ポツダム宣言受諾の上、降伏」しても、内乱が起こる可能性があったのでした。
とにかく、あらゆる面で「綱渡り状態」だったのが、当時の帝国政府の状況でした。
次回は上記リンクです。



