前回は「連合国「日本政府の形は日本国民が決めるべき」〜天皇制の是非と国民の意思・大いにいきり立つ「欧州情勢は複雑怪奇」平沼枢府議長・大混乱の帝国政府〜」の話でした。
暴発寸前の軍部と暴れる「複雑怪奇おじさん」と大揺れの帝国政府

大日本帝国の「国体護持の追加条件」に対して、回答してきた連合国。
回答したのは、「連合国四カ国から」というよりも、事実上「米国から」でした。
この時、米政府内部でも「相当揉めた」記録が残っており、別の機会にご紹介します。
ポツダム宣言の条項はこれを受諾するも、右宣言は、天皇の国家統治の体験を変更するという要求を含んでいないことの了解をあわせ述べた日本国の通報について、我々の立場は次の通りである。
一、降伏の時から、天皇および日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項を実施するため、その必要と認むる措置をとる連合国最高司令官の制限のもと(subject to)におかれるものとする。
二、天皇は日本国政府および日本帝国大本営に対し、ポツダム宣言のもろもろの条項を実施するため、必要な降伏条項に署名する権限を与え、かつ、これを保証することを要請せられ、また、天皇は一切の日本国陸海空軍官憲および、いずれの地域にあるを問わず、右官憲の指揮下にある一切の軍隊に対し、戦闘行為を終わらせ、武器を引き渡し、降伏条項実施のため、最高司令官の要求することあるべき命令を発するように命じなければならない。
三、日本国政府は、降伏後、直ちに俘虜および日本に抑留されている者を、連合国の船舶に速やかに乗せ、安全な地域に移送しなければならない。
四、日本国政府の最終的なかたちは、ポツダム宣言に従い、日本国国民の自由に表明する意思によって決定されるものとする。
五、連合国軍隊は、ポツダム宣言に掲げられたもろもろの目的が完遂せらるるまで、日本国内にとどまることにする。
当初「拒否」と思われた回答は、「拒否」ではなく、日本に対する「正当な回答」でした。
しかも、現代の視点から見れば、「ほぼ容認」とも取れる内容でした。
そして、現代の視点から見れば「適切な回答」であり、日本は「即受諾」すべき回答とも言えます。
ところが、
陸軍これは、「制限」ではなく
「隷属」と訳すべきだ!



こんな通告、
呑めるか!



我が帝国陸軍は、
最後まで戦うのだ!
まずは、軍部が大いにいきり立ってしまい、急沸騰して暴発寸前になってしまいました。
「暴発寸前」というよりも、「既に暴発していた」とも言える状況だった、当時の帝国陸軍。
そして、帝国政府内部でも、「まとまる見込み」が立たない状況でした。





もう一度照会して、天皇制の存続について、
はっきりした回答をもらうべきだ!
帝国政府最長老であった平沼議長・元総理がいきり立ってしまい、収集がつかなくなってしまいました。
1939年、日本中がびっくり仰天した「独ソ不可侵条約締結」に対して、



欧州情勢は
複雑怪奇!
この迷言を残して、内閣を投げ出してしまった、いわば「複雑怪奇おじさん」だった平沼騏一郎。
この歴史を見ると、気が弱そうな雰囲気を感じますが、ポツダム宣言の時期は異様に意気揚々としていました。
いわば、暴発寸前の軍部、暴れる「複雑怪奇おじさん」、そして大揺れの帝国政府という状況になりました。
昭和天皇「和平の糸口を切ってはならない」:軍部「属国になる」「滅亡する」


この時の様子を、迫水久常は、克明に「大日本帝国最後の四か月」に記録しました。
「記録」というよりも、まるで「議事録を取っていた」かのように、極めて精緻な記録です。



万事に慎重な総理は、
別に自分の意見を述べることもなく、



ただ、黙って、平沼さんの
話を聞いていた。





・・・・・
鈴木総理は「慎重」もありますが、「どうにも対応できない状況だった」のでしょう。



阿南陸相も同じような
意見を吐き、やはり、



もう一度、照会する方が
良い。



と主張した。
阿南陸相は、このほかに、



第二項の武装解除と、第五項の占領軍の駐留についても、
撤回してもらうよう交渉して欲しい。



と、
付け加えた。
連合国回答で、最も問題となっていた「第一項と第四項」。
それに加えて、軍部は「第二項と第五項撤回」を申し出てきました。
五項目のうち、四項目が「照会、または撤回要請」の可能性となりつつあった帝国政府・大本営。
ただし、仮にこの「第一項と第四項再照会+第二項と第五項撤回要請」すれば、



このJapanの
回答は、なんだ?



・・・・・



もはや、戦争続行しか
ないのか?
米国側が、態度を大きく硬化させるであろうことは、誰でも分かります。



平沼枢密院議長が再照会論者であることを
知った軍の連中は、大挙して平沼邸へ押しかけ、



入れ替わり、
立ち替わり、



もっと、平沼議長には
頑張って欲しい!



と、
後押しした。



平沼邸は、あたかも抗戦派の
本部のような観を呈していた。
「抗戦派の本部」というよりも、「抗戦派の参謀本部・大本営」の観を呈した平沼邸。



一方、梅津陸軍参謀総長と豊田海軍軍令部総長は、
直接上奏するという権限を持っていたので、



十二日の朝早く皇居へ
ゆき、



このような条件で和平を行えば、
日本は連合国の属国になり、



一般国民や軍人は、その進むべき方向を失い、
ひいては内部から崩壊が始まり、



日本の国は滅亡するよりほかに
道はありません!



私も、
全く同じ考えです!



と、
激しい口調で上奏した。


当時、「統帥部長」であった参謀総長と軍令部総長は、「直接上奏」の権限がありました。


「直接上奏」とは、昭和天皇に「直接、何かを申し上げる」ことです。
戦前は、総理大臣でも「直接上奏」は難しい場合もあり、一般の大臣には全く権限がありませんでした。
この点では、参謀総長と軍令部総長は「総理大臣以上の権限を持つ存在だった」とも言えました。



・・・・・
この時、昭和天皇が「どう答えたか」は、本書に記録がありません。



それからまもなく、
東郷外相は陛下のもとに行き、



先方の回答は、大体、我が方から申し出たる
了解事項を承諾したものと認められます。



と言上した。
陛下は、



自分もその通りだと思うので、
和平を取り結ぶようにしなさい。



決して和平の糸口を
切ってしまってはいけない。



とのお言葉を
東郷外相に伝えられた。
大いにいきり立つ人物が多い中、昭和天皇は極めて冷静に「和平へ向かう」指令を出しました。
先ほど、一般の大臣は「直接上奏権がなかった」と説明しましたが、この頃の東郷外務大臣は特例でした。
「超緊急に対処必須である外交案件」を司るトップだったからこそ、東郷大臣は、



これは、早急に陛下に、ご説明
申し上げなければ・・・
自分が必要と考えれば、サッと昭和天皇に拝謁する権限が特別に認められていました。
諸外国、特に欧米諸国であれば、「国家のトップ」の「和平へ向かう指令」で「国家の方針決定」でした。
大日本帝国憲法上「国家の主権者」であった昭和天皇の指令で「最終決定」のはずでした。


ところが、当時の大日本帝国は「最終意思決定者不在」の機構でした。
そのため、どこまでも「合議制」であり、帝国政府の最終方針は、まだまだ方向が決まりませんでした。
玉音放送まで、あと2日。
どうにも、意思決定がまとまらない帝国政府でした。
次回は上記リンクです。


