前回は「愁眉開いた+「なんとも割り切れない」迫水久常〜「否定ではない」連合国回答・問題となった連合軍回答「第一項と第四項」・「天皇制」黙認かどうか〜」の話でした。
「まずは丸呑み」決定の連合国回答:続く「正式ルート」前の海外放送

帝国政府においては、常に世界平和の促進を願い給い、今次戦争の継続によりもたらされる惨禍より人類をまぬが占めるため、速やかなる戦争の終結を記念し給う天皇陛下の大御心に従い、数週間前、当時、中立の関係にあったソビエト連邦政府に対し、敵国との平和回復のため、斡旋を依頼したが、不幸にして、この帝国政府の平和招来に対する努力は実を結ばなかった。
ここにおいて、帝国政府は、天皇陛下の一般的な平和克服についての御祈念に基づき、戦争の惨禍を出来る限り速やかに終止させたいと思い、次の通り決定した。
帝国政府は、昭和二十年七月二十六日、ポツダムにおいて、米英支三国首脳により発表せられ、その後、ソ連邦政府の参加をみた共同宣言に挙げられた条件の中を、右の宣言は天皇の国家統治の大権を変更する要求を含んでいないことを了解の基に受諾する。
帝国政府は、このように了解して誤りないことを信じ、本件に関する明らかな意向が速やかに表示せられるよう希望している。
1945年8月10日、ポツダム宣言に対し、大日本帝国政府は上記の「回答」を連合国に発信しました。

当時、内閣書記官長(内閣官房長官)だった迫水久常は、当時を詳細に記録しています。
大日本帝国最後の四か月十二日の午前〇時四十五分、
外務省のラジオ室が、



サンフランシスコ放送を
キャッチした、という情報が入ってきた。



続いて、同盟通信社も
傍受したらしい。
そして、2日後の8月12日、正式ルートではなく、海外放送で「連合国回答」が発信されました。
ポツダム宣言を含め、この頃の帝国政府への通知は「海外放送が先」となっていました。
「正式ルート」ではないので、「内容の正確性」は疑念があります。
その一方で、当時「つい最近」だったポツダム宣言の内容は「極めて正確」でした。
そのため、傍受した海外放送の「連合国回答は正しい」ことになります。



回答文は正面切って、
こちらの要求を受け入れる表現ではないが、



といって、決して
否定しているわけでもない。



・・・・・



・・・・・
第一信を英文のまま読んだ、迫水書記官長と松本外務次官。
思わず「黙ってしまう」内容も含まれていましたが、



このままで丸呑みする
方針を鈴木総理と確認した!



東郷外務大臣も
その方針です!
モタモタしていると「三発目の原爆」があるかもしれなかった当時。
「まずは丸呑み」の方針が、鈴木総理と東郷外相の間で決まりました。
この「下準備」に奔走したのが、迫水書記官長と松本次官でした。
「連合国正式回答」約12時間秘匿した外務省の思惑:軍部「外務省は害務省」




1945年、8月6日、9日と、原爆投下が続きました。
「6,9」と来ると、算数・数学的な規則性を感じさせます。
「3日の差」が次は「4日の差」或いは「5日の差」、または異なる差になるかもしれません。
或いは、他の規則性があるかもしれません。
いずれにしても「6,9」と来ると、「次は12」を想起させます。
その8月12日、モタモタしていると「三発目の原爆」の恐怖を感じていたであろう帝国政府首脳陣。
ポツダム宣言の条項はこれを受諾するも、右宣言は、天皇の国家統治の体験を変更するという要求を含んでいないことの了解をあわせ述べた日本国の通報について、我々の立場は次の通りである。
一、降伏の時から、天皇および日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項を実施するため、その必要と認むる措置をとる連合国最高司令官の制限のもと(subject to)におかれるものとする。
二、天皇は日本国政府および日本帝国大本営に対し、ポツダム宣言のもろもろの条項を実施するため、必要な降伏条項に署名する権限を与え、かつ、これを保証することを要請せられ、また、天皇は一切の日本国陸海空軍官憲および、いずれの地域にあるを問わず、右官憲の指揮下にある一切の軍隊に対し、戦闘行為を終わらせ、武器を引き渡し、降伏条項実施のため、最高司令官の要求することあるべき命令を発するように命じなければならない。
三、日本国政府は、降伏後、直ちに俘虜および日本に抑留されている者を、連合国の船舶に速やかに乗せ、安全な地域に移送しなければならない。
四、日本国政府の最終的なかたちは、ポツダム宣言に従い、日本国国民の自由に表明する意思によって決定されるものとする。
五、連合国軍隊は、ポツダム宣言に掲げられたもろもろの目的が完遂せらるるまで、日本国内にとどまることにする。



八月十二日の午前十時から、
閣議が開かれた。



東郷外相は、この新聞情報による
先方の回答を披露して、



当方の了解事項は承認されたもの、
と解釈すべきである。



という意見を述べたが、
外交ルートを経由する正式な回答が未着なので、



若干の意見交換があった
だけで散会した。
「前例」を考えれば、「外交ルートと同一」であるはずの「海外放送傍受の連合国回答」。
それに対して、帝国政府首脳陣は、「若干の意見交換」で終わりにしました。
なんとも能天気というか、皆、異常な状況の中、正常な判断力を失っていたようにも感じます。



八月十三日早朝、
日本がポツダム宣言を受け入れることについて、



連合国側から、外交ルートを
通じて、正式の回答があった。
ようやく翌日の8月13日早朝に、「外交ルートによる正式回答」が届きました。
ここで、迫水書記官長は、本書において、続いて「()書き」で重大なことを述べています。



(実は十二日夕刻、外務省に到着していたのを
外務省は隠していた。



私は少しも
知らなかった。)
なんと、8月12日夕方に到着していた「外交ルート・正式回答」を、外務省は12時間ほど秘匿しました。



まずは、外務省で
綿密に検討だ・・・



政府には、まだ
知らせんで良い・・・



もちろん、
迫水書記官長にも、な・・・
直前まで「同志」として、奔走していた迫水書記官長すら知らせなかった松本外務次官。
本来ならば、帝国政府首脳陣や軍部に即座に通知すべき責務を負っていた外務省。
当時、軍部は「帝国陸軍と帝国海軍」を指しましたが、事実上は「軍部=帝国陸軍」でした。



外務省は害務省
だからな!
戦時中、帝国陸軍は外務省を異様なまでに敵視し、外務省のことを「害務省」と呼んでいた、記録があります。



おのれ、
軍部の連中めが・・・



「害務省」などと
呼ばれて、たまるものか・・・
エリート意識が極めて強かった外務省のエリート官僚たちは、帝国陸軍の将官たちを憎んだでしょう。
実は、「エリート意識の高さ」においては、帝国陸軍将官たちが最高でした。
このような状況の中、もはや「敵国同士」のような関係だった軍部と外務省。
戦時中、軍部と省庁の仲が険悪であったことは、どこの国でも、よくありました。
ところが、「険悪」や「いがみあっていた」を遥かに超え、異常な関係にあった「軍部と外務省」。
おそらく、外務省としては、



軍部の連中などに、これ(回答)を
知らせたら、うるさい・・・
このように考え、約12時間、「外務省内で情報を止めた」と考えます。
しかし、この時期の「約12時間」は、極めて重要な時間です。
「外務省の判断」によって、帝国政府の回答は確実に遅延しました。
ひょっとしたら、その間に「三発目の原爆」や「更なる大空襲」があったかもしれなかった当時。
迫水書記官長は、わざわざ「()書き」にして、「やや目立つように」書いたのは、



外務省の連中は、
この俺にすら知らせなかった・・・



おのれ・・・
このことは、一言書かずには、おれん・・・
相当「怒り心頭であった」と、筆者は推測します。
何はともあれ、「外交ルート・正式回答」の受け、帝国政府は正式に詳細検討を開始しました。
次回は上記リンクです。


