昭和天皇に「お許しを乞う」鈴木首相〜国家方針の決定権限と君臨・一生「先輩と後輩」の関係が続いた帝国陸海軍・梅津美治郎と米内光政〜|ポツダム宣言から敗戦の真相22

前回は「戦前の軍隊教育「いよいよだめになったら、舌を噛み切って自決しろ」〜事実上「大本営・軍部トップ」梅津美治郎参謀総長・陸士の先輩後輩〜」の話でした。

目次

一生「先輩と後輩」の関係が続いた帝国陸海軍:梅津美治郎と米内光政

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梅津美治郎 参謀総長(Wikipedia)

終戦時、「帝国陸軍のボス」であった梅津美治郎参謀総長。

名前生年役職
鈴木貫太郎1868年内閣総理大臣
米内光政1880年海軍大臣
梅津美治郎1882年参謀総長(大本営)
東郷茂徳1882年外務大臣
豊田副武1885年軍令部総長(大本営)
阿南惟幾1887年陸軍大臣
迫水久常1902年内閣書記官長
鈴木内閣と軍部の大幹部たち(1945年7月26日時点)

戦前の帝国陸海軍は、軍部・大本営と政府・陸海軍省で権限が別れていました。

そして、「軍部と政府が対等」という建前でした。

現実としては、軍隊を握っていた軍部・大本営の方が強い状況でした。

その一方で、「人事権」を握っていた政府・陸海軍省も相応の力を持っていました。

そのため、大日本帝国は、軍の意思決定だけでも、極めて意思決定が困難な状況でした。

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左上から時計回りに、ルーズベルト米大統領、ハル国務長官、キング海軍作戦総長、スティムソン陸軍長官(Wikipedia)

当時、日米共に陸軍士官・海軍士官は、士官学校卒業生が中核でした。

そのため、日米陸海軍においては、「先輩と後輩の関係」が強く影響しました。

その一方で、米国の特徴は陸軍長官・海軍長官が「士官学校卒業生ではなかった」点でした。

日米戦争の間、ずっと「不動の陸軍長官」だったスティムソンは、ハーバード卒です。

ハーバード卒のスティムソンに関する話を上記リンクでご紹介しています。

士官学校卒業生ではないスティムソンは、「士官学校の枠外」となります。

スティムソン

私は士官学校卒業ではないので、
軍人と先輩・後輩ではない・・・

そのため、軍人・軍部に対して、比較的冷静に対処可能であったのが米軍でした。

ところが、帝国陸海軍においては、大臣・総長もほぼ全員が「士官学校卒業生」でした。

すると、「ほぼ全てが同一の陸士・海兵の卒業生」であり「一生先輩・後輩関係」が続くことになりました。

この点は、やはり良くない点であったと筆者は考えます。

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米内光政 海軍大臣(Wikipedia)

参謀総長がトップであった帝国陸軍に対して、海軍大臣がトップだったが帝国海軍でした。

首相経験者でもある米内光政は、誰が見ても「海軍のドン」でした。

豊田副武軍令部総長よりも、5歳年上であり「海兵の大先輩」であった米内大臣。

帝国海軍は、「米内が睨みを効かして統制していた」状況でした。

組織トップ職位
帝国陸軍梅津美治郎参謀総長(大本営)
帝国海軍米内光政海軍大臣(帝国政府)
敗戦(終戦)時の帝国陸海軍

「参謀総長がトップの陸軍」と「海軍大臣がトップの海軍」もまた、当時の陸海軍の特徴でした。

昭和天皇に「お許しを乞う」鈴木首相:国家方針の決定権限と君臨

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「大日本帝国最後の四か月」(迫水久常著、新教育紀行)


「大日本帝国最後の四か月」では、ポツダム宣言受諾に向けての話し合いが記録されています。

梅津美治郎

日本の軍隊教育では、武器を失ったら、
手で戦え!

梅津美治郎

手も足も使えなくなったら、
口で食いつけ!

梅津美治郎

いよいよだめになったら、舌を噛み切って
自決しろ、とまで教えてきた。

梅津美治郎

こんな教育を受けている軍隊に対して、
武器を捨てて敵に降伏しろという命令を出しても・・・

梅津美治郎

前線で果たしてうまく実行されるかどうか、
はなはだ疑問である。

現実的問題として、「武装解除は困難で、徐々にきちんと」と梅津参謀総長は言っています。

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阿南惟幾 陸軍大臣(Wikipedia)
大日本帝国最後の四か月

第四の占領軍の進駐について、
梅津、阿南の陸軍二首脳は・・・

阿南惟幾

出来るだけ小範囲で、小兵力にしてもらい
時日も短くするよう相手方に申し入れるべきだ。

大日本帝国最後の四か月

と主張した。
東郷外相は、

新教育紀行
東郷茂徳 外務大臣(Wikipedia)
東郷茂徳

ポツダム宣言を受け入れることが
先決で・・・

東郷茂徳

個々の問題は、その後の外交交渉によって
進めるべきだ。

大日本帝国最後の四か月

と言い、意見は
容易にまとまらなかった。

出席者が、それぞれ色々なことを言うので、全くまとまらない状況でした。

大日本帝国最後の四か月

私は午後一時から閣議を開く手はずを
整えていたが、こんな事情もあって二時に変更した。

大日本帝国最後の四か月

この間、鈴木総理は皇居へ
参上し、

鈴木貫太郎

最高戦争指導会議の
結論が出ないので・・・

鈴木貫太郎

今しばらく
お待ち下さい。

大日本帝国最後の四か月

今しばらくお待ちくださるようにとの
お許しを乞うてきた。

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昭和天皇(Wikipedia)

ここで、迫水は「鈴木首相が、昭和天皇のお許しを乞うてきた」と明記しています。

「お許しを乞う」は、「許可して頂く」よりも遥かに高い段階であり、現代では、ほとんどありません。

戦前の大日本帝国では、「首相が天皇のお許しを乞う」体制でした。

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大日本帝国の統治機構:天皇と帝国政府と大本営(新教育紀行)

戦前までの日本は、天皇が大元帥でもあり、帝国政府と大本営に「君臨する」存在でした。

「全てを超越した神」であった昭和天皇。

大日本帝国では、「帝国政府・最高戦争指導者会議の決定」が「国家方針の決定」でした。

昭和天皇は、「帝国政府・最高戦争指導者会議の決定」を「裁可する」立場でした。

そして、原則として、昭和天皇は「帝国政府・最高戦争指導者会議の決定」を「認める」姿勢でした。

つまり、昭和天皇の「裁可」は、現実としては「追認」に近い状況でした。

「国家方針の決定」の権限は「なかった」にも関わらず、「君臨した」のが天皇でした。

なんとも理解しずらい国家体制であったのが、戦前の大日本帝国の国家体制でした。

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