前回は「仁科芳雄「残念ながら間違いなく原子爆弾」〜「強力爆弾」の正体と極大激震・ポツダム宣言「黙殺+戦争邁進」後の「二十四時間の間断ない波状攻撃」〜」の話でした。
「なるべく早く終戦へ」と明言した昭和天皇:戦争終結の時機と降伏条件

1945年8月6日に、「原子爆弾が広島に投下された」事実を、現代は誰でも知っています。
ところが、原子爆弾は、その直前まで「この世に存在しない爆弾」でした。
その「この世に存在しない爆弾」を、1942年から強力に開発を推し進めた米国。
米国は、ポツダム宣言直前の1945年7月に、世界に先駆けて原子爆弾の核実験に成功しました。

トルーマンHiroshima(広島)に
強力な爆弾を落とした!
当時、トルーマン米大統領は、あえて「原子爆弾」と言わず「強力な爆弾」と表現しました。


当時、鈴木内閣の内閣書記官長であった迫水久常が、戦後に著した「大日本帝国最後の四か月」。
「大日本帝国最後の四か月」には、この前後の模様が詳細に記録されています。





そして、
八日午後になって、



残念ながら、間違いなく
原子爆弾である。



と報告して
来た。
ここで、仁科芳雄博士は「間違いなく」の前に「残念ながら」と言っています。
この「残念ながら」は、「投下された事実」に対する「仁科の気持ち」だったかも知れません。
その一方で、「日本の原爆開発総責任者」であった仁科芳雄博士。
仁科の脳裏に浮かんだのは、「科学者としての自分」に対する「残念な気持ち」だったのかも知れません。



東郷外相は、その日、
天皇陛下に拝謁し・・・



原子爆弾についての調査結果や
アメリカ側の放送などについて詳しく言上し・・・



これを転機にして
戦争を終わらせたい。



と
付け加えた。



その時、天皇は
こういわれた。





その
通りである。



この種の武器が使われた以上、
戦争を続けるということが・・・



いよいよ不可能になったので、
有利な条件を得ようとして・・・



戦争終結の時機を逸するのは
よくないと思う。



また、今になって、条件を相談しても
まとまらないだろうから・・・



なるべく早く、終戦に持っていく
ように希望する。



鈴木総理にも
このことをよく伝えるように・・・
広島への原爆投下を受けて、昭和天皇はハッキリと「即時終戦」を明言したのでした。
首相官邸で奮闘した迫水内閣書記官長:意思決定困難な「異質な国家」





東郷外相は、木戸内大臣に会って、
陛下のお話を伝えると共に鈴木総理にも報告した。
この迫水の「大日本帝国最後の四か月」における記載も重要な点を含んでいます。
昭和天皇は「鈴木総理に伝える」ことを要望しましたが、



天皇陛下が、
このように仰いました。
東郷外相は「木戸内大臣に伝えると共に」、鈴木総理にも「報告した」と迫水は記載しています。
この点からも、いかに木戸内大臣が絶大な権限を握っていたか、が分かります。


当時の大日本帝国は、政府と軍部・大本営が同格の立場であり、大変運営するのが困難な国家でした。
それに加え、超越した存在である天皇の周囲には、木戸内大臣らの宮内省派閥もありました。
とにかく複雑な構成をしていた大日本帝国は、非常に意思決定が困難な「異質な国家」でした。



東郷外相は、すぐ、最高戦争指導会議を
開くよう申し入れた。



八月七日から八日にかけての
首相官邸は、ごった返した。



鈴木総理に面会を求める者が相次ぎ、
私や秘書官たちは目が回るほど忙しかった。



我々は、なるべく総理に
合わせまいと頑張った。
軍部・大本営もまた「終戦に近づいている」雰囲気を、明確にキャッチしていました。
この「終戦へ向かっている」流れを、軍部・大本営はあらゆる手段で潰そうとしたのでしょう。



面会を求めてきた人たちの
意見は大きく二つに分かれていた。



こうなった以上、すみやかに終戦にせよ、
という人がいるかと思えば・・・



国民の団結をいっそう強固にして
玉砕の覚悟を決めるべきだ、と説く人もいた。



文字通り、百家争鳴の観が
あった。
色々な人が「色々なこと」を言う中、官邸が大混乱に陥いるのを迫水内閣書記官長は踏ん張りました。





私は、これらの人々を説得する術をマスターしていたので、
終戦を主張する人たちに対しては、こう言った。



簡単にそんなことは
できません。



それよりも国民の間に分裂が生じるのを
防ぐことが先決問題ではないでしょうか。



また、一億玉砕を説く人に対しては、
次のように答え、引き取ってもらった。



戦争を続けることはもちろんですが、
問題は国体の護持です。



戦争を続けたばかりに
国体の護持ができなくなったら、それこそ大変です。
大きく分けて「早期終戦」と「一億玉砕」を主張する、色々な人たちがドッと官邸に来ました。
おそらく「来た」と表現するよりも、「押しかけて来た」または「乗り込んできた」という感じだったでしょう。
この時点は、1945年8月7日から8日。
当時、大日本帝国と呼ばれた我が国日本は、一日ごとに確実に向かっていました。
終戦へ、または、敗戦へ、と。

