前回は「「なるべく早く終戦へ」と明言した昭和天皇〜首相官邸で奮闘した迫水内閣書記官長・意思決定困難な「異質な国家」・戦争終結の時機と降伏条件〜」の話でした。
「一気に終戦に向かった」日本:「最高意思決定者が不在」の統治機構

米英中の三カ国から出されたポツダム宣言に対して、「黙殺+戦争遂行邁進」と発表した鈴木首相。
| 日付 | 出来事 |
| 7月26日 | 連合国、日本政府へポツダム宣言通告 |
| 7月28日 | 日本政府、ポツダム宣言を「黙殺+戦争遂行邁進」と発表 |
| 8月6日 | 広島へ原爆投下 |
| 8月8日 | ソ連、日ソ不可侵条約の一方的破棄を日本へ通告 |
| 8月9日 | 長崎へ原爆投下 |
| ソ連軍、日本へ侵攻開始 | |
| 8月14日 | 日本政府、連合国へポツダム宣言正式受諾通知 |
| 8月15日 | 昭和天皇、玉音放送で国民に降伏告知 |
| 9月2日 | ミズーリ号で連合国、日本の間で降伏調印 |
そして、1945年8月6日に広島に原爆が落とされ、日本政府は、一気に終戦に向かいました。
本来、もっと早く「一気に終戦に向かうべきだった」日本政府。
ところが、そうはいかない理由がありました。
海外であれば、トルーマン大統領が、
トルーマン (仮称)これは、やむを得ない・・・
我が国は降伏しよう・・・
仮に「終戦=敗戦を認める」と、大統領の権限で決定すれば、それが「米国政府の決定」となります。
様々な「反対の声」があっても、「最終意思決定者は大統領」という事実が明確な米国。
そして、大日本帝国と同様に、王室(日本では皇室)があり、内閣総理大臣であるチャーチル首相が、



これは仕方ない・・・
降伏しよう・・・
仮に「終戦=敗戦を認める」と、首相の権限で決定すれば、それが「英国政府の決定」となります。
ところが、「最高意思決定=天皇」であったはずの大日本帝国は、「最終意思決定者が曖昧」でした。
「最高意思決定者は天皇」と大日本帝国憲法に明記されているのに、そうではなかったのでした。



なるべく早く、終戦に持っていく
ように希望する。
実は、昭和天皇は「政府・大本営に対して命令する権限」を「持っていなかった」のでした。
この「昭和天皇が有した権限」は諸説あり、「慣習法」によった説もあります。


上図のような統治機構であったにも関わらず、「昭和天皇が命令できない」のが大日本帝国の国家像でした。
そのため、「最高意思決定者が不在の統治機構」だったと説明しても「誤りではない」状況が戦時中の日本でした。
実は、ポツダム宣言直前の英総選挙で、チャーチル率いる保守党は大惨敗し、首相が交代しました。
首相は、チャーチルからアトリーに変わりましたが、ポツダム宣言はチャーチル名で出されました。



UKは首相が変わった
らしいが・・・



これまで5年間以上、英政府を
牽引してきたのは、チャーチルだ!
米国にとっては、とにかく「英国といえばチャーチル」でした。
広島原爆直後「ソ連の回答督促」した東郷大臣:「終戦へ」の鈴木首相





八日の夜遅く、
鈴木総理は私を読んで、こう言った。



広島に落とされたものが原子爆弾であることが
わかった以上・・・



私は明日の閣議で、自分から終戦についての
意見を述べたいと思っているので・・・



その準備を
してくれないか。



四月七日の組閣依頼、鈴木総理は
公式の発言をする場合には・・・



必ず、私か秘書官たちに
原稿の作成を命じた。



閣議、一般の会合、放送、宴会と
どんな場合でもまとまった話をするときには・・・



我々が原稿を作らなければ
ならなかった。
当時、鈴木首相の発言は事前に「必ず原稿があった」ことを明言した迫水書記官長。
ならば、「黙殺+戦争遂行邁進」もまた「原稿があった」ことになります。
この点は、別の機会に、迫水の他の著作等をもとに当時の事実をご紹介します。



しかも総理は我々を信頼し切っているのか、
ほとんど原稿の棒読みである。



我々は、いつも総理の胸中を察し、
慎重に原稿をつくった。



鈴木総理の語り口は
ゆっくりしている。



何回か原稿を作成しているうち、二百字詰め原稿用紙一枚分が
大体一分間くらいであることを知った。
当時、77歳であった鈴木首相は、温厚な性格もあり「ゆっくりした語り口」で語りかけました。



政府は七月はじめ、戦争終結の手段として、
ソ連に対して仲裁者の立場に立つことを要請したのに対して・・・



ソ連の首脳部は回答を留保したまま
ポツダム会談へ出かけてしまっていたのだが・・・



八月六日、スターリン首相、モロトフ外相の一行は、
ポツダムからモスクワへ帰ってきた。


実は、スターリン首相(書記長)は、ポツダム会談の遥か前に「対日参戦」を決めていました。


ソ連の「対日参戦の決定・時期」は、超極秘事項でしたが、モロトフは早めに知っていたでしょう。



東郷外相は、その日の午後五時、モスクワ駐在の
佐藤大使に対して、次のような趣旨の訓電を発した。



色々な都合があるので、
至急モロトフにあって、回答を督促してもらいたい。





・・・・・



東郷外相の気持ちとは
裏ハラに佐藤大使からの返事は来ない。



東郷外相は、翌七日の午後三時四十分、
再び次のような趣旨の訓電を打った。



広島攻撃に用いられたアメリカの爆弾が原子爆弾で
あることが、ほぼ明らかになってきた時である。



形勢はますます
急迫している。



ソ連側の明白な態度をすぐ知りたいと
思うので、急速に回答が得られるよう手筈を整えてもらいたい。
もはや「一刻も早く」と言うよりも「一秒でも早く」ソ連の回答が欲しかった大日本帝国政府。
大日本帝国政府は、焦りに焦り、すぐにでもソ連の回答を要請していました。



・・・・・
この中、スターリン書記長は「重大極まりない決定」を既に固め、ソ連内に指令を出していました。



Japanへ
侵攻する準備を整えよ!



Japanへの宣戦布告は
8月8日!



翌9日に、
Manchuria(満洲)へ攻め込むのだ!



そして、Hokkaido(北海道)へも
侵攻を命ずる!



Japanが降伏する前に、
Japanの領土を出来るだけ支配下に収めるのだ!
このスターリンの「重大極まりない決定」に対して、当時、日本政府は「予期すらしてなかった」のでした。



・・・・・



・・・・・



・・・・・
そして、大日本帝国政府大幹部たちは、ソ連の回答を待ち続けていました。
絶望の中、遠い目をして。

