前回は「「宣戦の大詔を奉戴」した帝国政府〜天皇を「輔弼」の政府と「輔翼」の軍部・大戦争引き起こした帝国・開戦まで「2ヶ月未満」の東條内閣・昭和天皇が東條英機に「組閣命令」〜」の話でした。
「明治維新最大の英雄」西郷隆盛の銅像の謎

明治維新の大英雄である西郷隆盛。

上野公園には、「ほのぼのとした」西郷隆盛像があり、多くの日本人は見たことがあるでしょう。

実は、この西郷隆盛像の除幕式(公開の式典)において、西郷隆盛の妻・糸は、
西郷糸子うちの人(西郷)は、
こんな人ではなかった!!
このように大声を上げたそうです。
「銅像を見てちょっとつぶやいた」のではなく、「皆に聞こえるように大声で叫んだ」そうです。
当時の日本政府の高官達が立ち並ぶ中で、



これは、
うちの人(西郷)の銅像ではない!!
除幕式で、「銅像が主人(西郷)の実像と違う」と言う方も言う方ですが、



こんなの全然
うちの人(西郷)ではない!



いかに除幕式であろうと、
これは主張しなければ・・・



私は西郷の妻として、
主張しなければ・・・
西郷糸は、このように考えて、敢えて「極めて無礼な行為」に踏み切ったのでしょう。
西郷銅像除幕式に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
最も西郷隆盛を知る人物である、奥さんが「違う」と言う西郷の銅像。
これは、極めて大きな謎です。
写真が存在しない西郷隆盛


幕末維新を駆け抜けた西郷隆盛ですが、実は西郷隆盛の写真は存在しません。
これは、極めて不思議なことであり、



おいどんは、写真が
大嫌いなのだ・・・
この「西郷の写真が一切ない」理由は、「西郷隆盛が写真が大嫌いだった」説が有力です。
とは言っても、幕末〜明治は、非常に高価でしたが日本において写真が流行した時期でした。
木戸孝允や高杉晋作は、多数の写真が残されています。


土佐の風雲児たち、坂本龍馬・中岡慎太郎達も多数の写真が残されています。
いくら西郷隆盛が「写真が大嫌い」とは言え、一時は「西郷首相」であった西郷隆盛。
仮に、西郷隆盛が「写真が大嫌い」が事実であったとしても、



西郷さん、
今日はせっかくの場なので・・・



記念写真を一枚・・・
お願いしたいのですが・・・
このように「記念写真」等を撮影したい希望は絶対にあったはずであり、それに対して、



おいどんが、写真が
大嫌いなのをご存知であろう!



・・・・・



そんな言い方
しなくても・・・
こう言って、「周囲の場を凍らせる」ことを、西郷がわざわざしたのかどうか。
このように「協調性ゼロ」のことをやれるのは、軍事力を背景にした場合は考えられます。
確かに、討幕から明治政府運営の際には、西郷の背景には「薩摩軍」が常にいました。
それは事実ですが、参議などの会議などでは、「人と人が協調する」ことが必須です。
どんな場面でも、政治は「人と人の間で和を保つ」姿勢も、ある程度は重要です。
「大嫌い」としても、「写真撮影を全て突っぱねる」のは、政治家としては支障をきたすでしょう。
こう考えると、「西郷隆盛の写真が一枚もない」のは、「不自然」以外の何者でもありません。
西南戦争当初の西郷隆盛の動きの真相:なぜ戦争に踏み切ったか?


とにかく謎が多い西郷隆盛ですが、最大の謎は西南戦争です。
| 西郷軍 | 政府軍 | |
| 兵力(人) | 約30,000名 | 約90,000名 |
| 戦死者(人) | 約6,800名 | 約6,400名 |
最終的に、西郷軍と政府軍合わせて13,000名以上が戦死した西南戦争。



おいどんが、決起すれば
多数の若者が戦死する・・・



政府に勝てるかもしれないし、
負けるかもしれない・・・



いずれにしても、
大勢の生命が・・・
幕末維新の表も裏も全て知り尽くしている西郷隆盛。
確かに、幕末維新の軍事力の原動力は薩摩軍であり、その薩摩軍を率いたのは西郷でした。
大政奉還や江戸城(無血)開城など、比較的平穏でいたが、武力で討幕したのが事実でした。
鳥羽伏見が起きた1868年から9年後の1877年、西南戦争を起こす西郷は49歳。
幕末維新のことはありありと、明瞭に覚えていたはずです。



・・・・・
どうするか・・・


この頃の西郷隆盛の真実が、当時の新聞に記載されています。
次回は、この新聞から、西南戦争初期の西郷隆盛の実像を追ってみましょう。


