「西に向かって開いていた」鎌倉期の日本の国家像〜アジアから欧州に広がる広大なユーラシア大陸・異質なモンゴル帝国の勃興・「海によって遮断」され続けた日本〜|日本の国家像2・大学受験・高校受験・中学受験・社会

前回は「アジアにおける日本の立ち位置〜「アジアの帝王」として君臨した中国・長い歴史における日本と中国・唐と宋とモンゴル帝国から現代中国へ〜」の話でした。

目次

アジアから欧州に広がる広大なユーラシア大陸

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モンゴル帝国の最大版図(Wikipedia)

13世紀頃に、猛烈な勢いで世界を暴れ回り、超巨大国家となったモンゴル帝国・元。

名称の通り、モンゴル帝国は「モンゴル」であり、いわゆる「中国」とは別の国家です。

有史以来、ずっと中国の圧力と圧迫を受け続けてきたのが、日本及び周辺国家でした。

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ジャワハルラール・ネルー インド初代首相(Wikipedia)

インド初代首相であるネルーの視点から見れば、日本と中国は、

ネルー

日本は中国のよくできる
弟子であったが・・・

「日本は中国の弟子」という認識でした。

ネルー

日本は中国から
自分のやり方で取り入れ・・・

ネルー

都合の良いように
つくりかえた・・・

ネルーの視点から見れば、日本は「ずっと受け身の姿勢」だったようです。

ネルーの視点に関する、武蔵中学の入試問題の話を、上記リンクでご紹介しています。

この視点に対しては様々な意見がありますが、「概ね正しい」と筆者は考えます。

アジアの一角である中国大陸は、中東から欧州にまで広がる広大すぎる陸地があります。

そして、その陸地によって、古来から様々な文明や文化の交流が生まれました。

異質なモンゴル帝国の勃興:「海によって遮断」され続けた日本

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京都が中心・重心の日本列島(新教育紀行)

それに対して、「全てが島国」であり、他の国と陸地で一切繋がっていない日本。

歴史的に見て、日本は、ずっとアジアや中国大陸とは「海によって遮断」され続けました。

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種子島・鉄砲館(新教育紀行)

「海によって遮断」されていても、昔から果敢に海へ船で漕ぎ出して、島と島の間を行き来する人も大勢いました。

大小様々なスケールの船によって、比較的海の深さが浅い日本海〜東シナ海では、古来から往来が活発でした。

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平安京:模型(平安京創生館、Wikipedia)

そして、平城京・平安京の時代を経て、13世紀は鎌倉時代であり、北条氏が実権を握っていました。

王朝名存在時期
581-618年
618年-907年
960年-1279年
元(大元、最盛期)1271-1368年
中国大陸の王朝

様々な王朝が入れ替わった中国において、大きな変化が起きたのが13世紀でした。

女子小学生

宋の時代と、
元の時代が重なっているけど・・・

元によって宋が押され続けたため、宋の末期と元が勃興する初期が多少重なります。

ここで、異質な大帝国・モンゴル帝国が勃興しました。

中国の民族は多数いますが、隋〜宋は概ね「同じ漢民族の争い」でした。(諸説あり)

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モンゴル帝国初代皇帝 チンギス・カン(Wikipedia)
チンギス・カン

我がモンゴル人が
大帝国を作るのだ!

そこに、完全な異民族であるモンゴル人が、一気に乗り込んできました。

チンギス・カン

ゆけっ!
我が軍は世界最強なり!

そして、中国大陸に巨大すぎる帝国を作りました。

中国内部においては、「異民族」である点で極めて異質であった、モンゴル帝国・大元という国家。

当時の日本にとっても、その勢いは「異質」でありましたが、

鎌倉時代の日本人A

なんだか、中国で
強大な国家が生まれたらしい・・・

日本人にとっては、モンゴル人か中国人かは、当時は「どちらでも良い」状況でした。

鎌倉時代の日本人A

こんな国家に
攻められたら、大変だな・・・

現代とは異なり、「西に開いていた」日本の国家像。

京・山城中心の世界であった当時の日本で、鎌倉幕府は、「東国の関東から日本を支配」していました。

「西に向かって開いていた」鎌倉期の日本の国家像

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鎌倉幕府第八代執権 北条時宗(Wikipedia)

モンゴル帝国が勃興して大膨張を続けていた頃、鎌倉幕府執権であった北条時宗。

名前執権在職時期
1北条時政1203-1205年
2北条義時1205-1224年
3北条泰時1224年-1242年
5北条時頼1246年-1256年
8北条時宗1268年-1284年
14北条高時1316年-1326年
著名な北条氏執権
北条時宗

中国大陸で
強力な国家の元(モンゴル帝国)か・・・

1251年に生まれた北条時宗は、1268年、数え年18歳(現代の17歳)で執権に就任しました。

現代の高校二年生の年で、執権となった北条時宗。

男子中学生

そんな若くて、
執権の職が務まったの?

まだまだ鎌倉幕府の影響力が強く、事実上の「総理大臣格」であった執権。

まだ18歳だった時宗に、総理大臣が務まるはずはなく、

連署

時宗様・・・
我らが補佐しますので、ご安心を

当時、連署などが多数いて合議制だった鎌倉幕府では、多数のベテランが補佐しました。

北条時宗

我が国は西の海に
開いているからな・・・

鎌倉幕府の視線もまた、中心であった西側である「京・山城」に向かわざるを得ない状況でした。

なんといっても、日本において天皇の存在は別格であり続け、中心は「天皇がいる京」でした。

北条時宗

京には
天皇がいらっしゃる・・・

京・山城の視点から見ても、先進国である中国大陸に向かわざるをえず、日本全体が「西向き」でした。

北条時宗

元が攻めてくるとすると、
当然「西から」だのう・・・

当時の執権・時宗にとっては、「何から何まで全て西を向く必要」がありました。

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