アジアにおける日本の立ち位置〜「アジアの帝王」として君臨した中国・長い歴史における日本と中国・唐と宋とモンゴル帝国から現代中国へ〜|日本の国家像1・大学受験・高校受験・中学受験・社会

前回は「現代の視点から見た「神風特別攻撃隊の存在」〜当時の将兵の責務と思い・大和魂を具現化した神風特別攻撃隊の名称・歴史を力に転化・特攻の戦果と極めて甚大な損害を受けた米軍〜」の話でした。

目次

アジアにおける日本の立ち位置:「アジアの帝王」として君臨した中国

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日の丸:日本の国旗(Wikipedia)

今回は、世界における日本の立ち位置、日本の国家像に関する話です。

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世界地図(Wikipedia)

欧米の価値観では「Far East=極東」に位置する、我が国・日本。

この「極東」という呼び方は、日本人としては、

日本人A

「極東」っていうと、
本当に端って感じね・・・

「東の端っこ」や「東の極み」という感じで、全然嬉しくないのが実情です。

男子中学生

確かに、「極東」ではなくて
「東」くらいで良い気がする・・・

「極東」と名付けたのは、日本語の翻訳であり「Far East」を別な名称にしても良かったかもしれません。

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江戸=東京が中心・重心の日本列島(新教育紀行)

現在は、本州・北海道・四国・九州の四つの大きな島と、沖縄島などの多数の島から成り立つ日本。

今回は、「世界から見た日本の歴史」を考えてみたいと思います。

中学受験〜大学受験の社会の「時事問題」は、必ず歴史と密接な関係があります。

この点から、中学受験〜大学受験の時事問題対策になると考えます。

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大日本帝国の進出(第二次世界大戦全史 洋泉社MOOK)

昭和初期の日本は「大日本帝国」という名称で、現在の日本とは全く異なる軍国主義の国でした。

一時は太平洋からアジア・オセアニア地域に広がる、信じられないほど広大な地域を有した大日本帝国。

大日本帝国

我が大日本帝国は、
さらに領土を広げてゆくのだ!

「昭和前期の大日本帝国」は軍国主義ですが、「明治の大日本帝国」は、軍国主義というよりも、

大日本帝国

我が大日本帝国は、
とにかく、軍を強くせねば・・・

大日本帝国

欧米列強の植民地に
されてしまう・・・

明治期に急速に陸海軍を強化した大日本帝国は、主に「国家を防衛すること」が目的でした。

その後、1894年の日清戦争、1904年の日露戦争で勝利した大日本帝国。

大日本帝国

アジアの盟主であった
中国(清国)に快勝した!

それまで、「アジアの帝王」に君臨し続けていた中国に戦争で勝利しました。

2000年代以降、中国が目覚ましい躍進を見せています。

実は、19世紀中期までは中国は「世界最大のGDPを有する国」でした。

男子小学生

えっ?
中国が世界最大のGDPだったの?

女子小学生

知らなかった・・・
1850年頃まで、最大の国家だったんだね。

男子小学生

19世紀は、イギリスやアメリカが
最大と思ってた・・・

19世紀末〜21世紀の歴史を見ると、米英などの欧米が圧倒的な存在を誇る世界の歴史。

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大英帝国の領土:1921年(Wikipedia)

産業革命を起こし、世界中に進出した英国(イギリス)は、一時は世界一の巨大な国家へ成長しました。

第二次世界大戦の頃には、「世界中に領土を持つ」大英帝国は「世界一の国家」でした。

対して、中国は「世界に領土を持つ」ではなく、アジアに巨大国家を築き上げ続けました。

小学校教員A

昔、日本は中国の文明を
受け入れるために・・・

小学校教員A

遣隋使や遣唐使という
使節を送っていました・・・

日本の歴史において、「遣隋使」「遣唐使」という使節団を、中国に送っていたのが日本です。

長い歴史における日本と中国:唐と宋とモンゴル帝国から現代中国へ

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宋のエリア(Wikipedia)

紀元前に秦という強大な国家を持った中国は、その後、隋、宋、明などの王朝を築きました。

王朝名存在時期
581-618年
618年-907年
960年-1279年
隋から宋までの中国の王朝

上の表のように、国家が入れ替わった中国では、常に大陸に多数の王朝や国家が存在しました。

そして、隋・唐・宋などの中国は、アジアにおいて、常に圧倒的な力を持ち続けました。

宋が栄えた後、中国にとって極めて大きな変化が起こりました。

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モンゴル帝国初代皇帝 チンギス・カン(Wikipedia)
チンギス・カン

我がモンゴル帝国を
世界へ!

モンゴルから急速に膨張して、モンゴル帝国(げん)を作り上げたチンギス・カン。

モンゴル周辺を治めていて、中国と併立していたモンゴル帝国は、アジアに急速に拡大しました。

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モンゴル帝国の最大版図(Wikipedia)

そして、モンゴル帝国の最大版図は、東アジアに限らず、アジア全域に広がりました。

当時、圧倒的な世界最強国となったモンゴル帝国は、周囲に侵略を続けました。

チンギス・カン

とにかく
周囲を侵略するのだ!

モンゴルの草原から中国・アジアを納めた征服王朝であった元は、多数の王によって支配されました。

そして、モンゴル帝国の皇帝は、中国および東アジアを「中心地」として直轄領としました。

王朝名存在時期
581-618年
618年-907年
960年-1279年
モンゴル帝国・元(大元、最盛期)1271-1368年
隋から宋までの中国大陸の王朝

元はモンゴル帝国であり、中国の王朝ではないため、上の表の書き方は本来の意味からずれます。

その一方、日本から見れば全て「隣国・中国大陸の王朝」であり、

鎌倉期の日本人A

中国の王朝であろうと、
モンゴルの帝国であろうと・・・

鎌倉期の日本人A

とにかく、巨大な国家が
あることには変わりはない・・・

「日本海を隔ててすぐそこ」の巨大国家が中国かモンゴルか、の違いは些少でした。

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モンゴル帝国五代皇帝 クビライ・カン(Wikipedia)
フビライ・カン

我がモンゴル帝国は
アジアの陸の大部分を納めた!

猛烈な勢いで、大陸の大部分を支配したモンゴル帝国・大元。

主に「西へ西へ」と、陸地を攻めてゆきました。

主に大量の馬を使った大規模な戦争を得意としたモンゴル人にとって、陸地は攻めやすかったのでした。

そして、古来からどんな国家も「膨張を続ける」時、「全方位に侵攻する」傾向があります。

フビライ・カン

西へ、西へと
進み、大陸はかなり占領した・・・

フビライ・カン

そして、我がモンゴル帝国は、
いよいよ海にも進出したい・・・

フビライ・カン

海の向こうには、
ジパング(日本)という国があるらしいが・・・

この頃、日本はジパングとも呼ばれている国家でした。

そして、中国の王朝であった宋を倒した元は、当然、日本に関する知識を持っていました。

フビライ・カン

さてと、
それでは、軽く日本を攻め取るか・・・

「大皇帝」とも言える存在となったクビライ・カンの視線は、東に向きました。

遠い昔に、白村江の戦い(663年)で中国大陸で戦った日本。

そして、白村江の戦いで大敗北した日本は、

鎌倉期の日本人A

「白村江」では
大変な大敗北であった・・・

鎌倉期の日本人A

やはり、中国大陸へ
乗り込むのは、厳しい・・・

それ以降、しばらく大陸への進出は断念しました。

「白村江」以降は、基本的に「国内戦争」のみでした。

遣隋使・遣唐使を送り、概ね「中国に従う姿勢」を見せ続けていた日本。

クビライ・カンの「視線の矛先」が向いてきたことによって、日本の命運が変わろうとしていました。

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