前回は「明治維新から日露戦争までの「36年」〜歴史の出来事と時間を考える・「さかみ」と書いた戦艦「みかさ」・不思議な戦前の「右から左」日本語表記〜」の話でした。
戦艦三笠の巨大「直径30cm」砲弾:歴史上の人物が歩いた場所と思い

横須賀にある記念艦・戦艦三笠を訪問しました。
現在は、海辺の陸上に設置されている戦艦三笠。
陸上からは、階段を上がって、まずは甲板に上がります。
そして、甲板には、上のような大きな大砲が据えられています。
戦艦三笠ドカンッ!
ドカンッ!
この大砲は、口径30cm(30.5cm説もあり)です。


戦艦三笠の大砲で砲撃した砲弾が、大砲のすぐ近くに展示されています。
直径30cmの砲弾は、見るからに巨大で、この砲弾を「打ち出す」のは物理的に、かなり大変なことです。
上の写真の通り、同じ「直径30cmの砲弾」で、使用目的によって種類・大きさが異なる砲弾があります。


大砲を背にして、戦艦三笠の先端部に向かってみた光景が上の写真です。
綺麗に整備されていますが、ところどころ錆びているのが、往時の面影を彷彿とさせます。


東郷平八郎連合艦隊司令長官がいた場所は、艦橋が多いですが、三笠の全体を歩いたはずです。
すると、今、この場に立っている場所にも、東郷平八郎始めとする様々な人が歩いたことになります。
このように、歴史上の場所を訪問した際には、



ここを東郷平八郎が
歩いたんだ・・・
このように、往時の歴史上の人物たちの思いを想像すると良いでしょう。
薩摩出身・東郷平八郎と大山巌の戦い:「超一生懸命」戦った将兵たち


そして、戦艦三笠の内部に入ってゆきました。
甲板から階段を降りると、様々な部屋がある戦艦三笠内部に入ります。
まず、目についたのが、上の写真の東郷平八郎の銅像です。
薩摩出身の東郷平八郎は、正に「薩摩隼人の典型的タイプ」でした。
| 名前 | 生年 |
| 大山 綱良 | 1825 |
| 西郷 隆盛 | 1828 |
| 大久保 利通 | 1830 |
| 村田 新八 | 1836 |
| 篠原 国幹 | 1837 |
| 種田 政明 | 1838 |
| 桐野 利秋 | 1839 |
| 西郷 従道 | 1842 |
| 大山 巌 | 1842 |
| 別府 晋介 | 1847 |
| 東郷 平八郎 | 1848 |
上の表は、明治維新から明治政府の時代に活躍した薩摩藩出身の人物たちです。
日露戦争の時には、「陸の大山巌、海の東郷平八郎」によって、ロシアを倒した大日本帝国。


1842年生まれの大山巌満洲軍総司令官は、歴戦の陸軍の超重鎮でした。
明治維新の頃は、「薩摩藩といったら西郷隆盛」だった薩摩軍団。
大山巌と西郷隆盛と西南戦争に関する話を上記リンクでご紹介しています。
実は、大山巌より6歳年下の東郷平八郎もまた、歴戦の人物でした。


1863年に勃発した薩英戦争の時は、16歳(数え年、現代の15歳)の頃だった東郷平八郎。
東郷平八郎もまた、薩英戦争の際に薩摩藩の砲台で戦った記録が残っています。
もちろん、東郷平八郎の6歳年上で当時22歳(数え年、現代の21歳)の大山巌も薩英戦争で戦いました。
とにかく、「戦い続けた」歴戦の軍人であり続けたのが、東郷平八郎と大山巌でした。
そして、東郷平八郎と大山巌を支え続けた将士たちと、前線で戦い続けた兵士たち。
それらの皆さんが、



我が大日本帝国の
危急存亡の時だ!



皇国の興廃、
この一戦にあり!



必ず、必ず
ロシアに勝つのだ!
一生懸命を超えて、「超一生懸命」戦い続けた結果、なんとかロシアに勝つことが出来た日露戦争。
この時、もし、仮にロシアに敗北していたら、現在の日本の国家の姿は「別の姿」になっていたかもしれません。
そして、仮にロシアに敗北していたら、その後の昭和の大日本帝国政府の歴史は「全然違う」ものになっていたでしょう。
日露戦争では、帝国陸海軍の将兵たちが「死力を尽くして」を超えて、「死力の限りを尽くして」戦いました。
様々な見方がありますが、陸では、「55vs45」くらいで、帝国陸軍が「やや押していた」状況でした。
ところが、ロシア帝国内部は混乱していたとはいえ、まだまだ「後方に前線に出す軍隊が控えていた」状況でした。
それに対して、帝国陸軍は「内地の防備をガラガラにして、ほぼ全軍が大陸に出撃した」状況でした。
そして、日本海海戦において、「鮮やかすぎる大勝利」によって大日本帝国はロシア帝国を押し切り、辛勝しました。
現在(2026年)、日露戦争勝利から121年が経過し、現在の日本という国があります。
記念艦・戦艦三笠を訪問すると、これらの歴史を実感することが出来ます。
まだ訪問したことがない方は、ぜひ訪問してみてください。


