前回は「歴史の写真から考える学び〜少しぎこちない表情のドレス姿の女性たち・鹿鳴館「欧米の社交パーティーを日本で」・「格下扱い」からの脱却〜」の話でした。
終戦(敗戦)後80年の節目の年:敗戦後の日本政府の事業

今年2025年は、終戦(敗戦)後80年の節目の年です。
そのため、中学受験〜大学受験でも、戦争に関する出題がある可能性が高いです。
世界各国と比較して、第二次世界大戦に対して「後ろ向き」な姿勢が強い日本。
特に、戦時中の話は「蓋をする姿勢」が強いのが現実です。
そのため、「戦時中の話」は受験の問題として「相応しいかどうか」という議論がありそうです。
戦時中の「戦争の話」は出題されにくいですが、戦時中の「生活の話」は過去に出題があります。
受験の問題として出る可能性が高いのは、下記のような内容と筆者は考えます。
A.戦時中の生活の話
B.第二次世界大戦前後の日本の国家・国民の姿の話
C.第二次世界大戦に関して、戦後に日本政府が行なっている事業の話
上のA,Bに関しては、比較的メディアなどでも語られることが多いです。
今回は、Cに関する話です。
各地に残る「第二次世界大戦の慰霊の場」:戦争の爪痕

先日、靖国神社、および遊就館を訪問しました。

遊就館では現在、「終戦80年戦跡写真展 今も残る英霊の足蹟」展が行われています。
上の写真は、かつての大日本帝国という名称だった日本の「戦争と最大進出圏」の図です。

現在の日本周辺を見てみましょう。
文字通り「世界大戦」だった「第二次世界大戦」という戦争。
日本が「実際に戦った」のは、東アジア及び太平洋です。
主に陸軍はアジアで、海軍は太平洋で戦争をしました。
当時は、米英中と死闘を繰り広げた大日本帝国。
「米英中」と簡単に言いますが、「米国+英国(大英帝国)+中国」です。
現代の感覚では、「これらの一国だけ」とでも戦争するのは大変なことで、特に「米国は別格」です。

さらに、英国は当時は大英帝国であり、世界一の広大な領土を有していました。
これらに対して、当時、ドイツ・イタリアと組んで、大日本帝国は戦争を開始したのでした。
確かにドイツは、軍事力と科学力は世界一、二を争っていた圧倒的強国でした。
それでも、「米英中vs日独伊」では、どう考えても「分が悪い」です。
常識的に考えれば、「万に一つも勝てるはずがない戦争」でした。

最後の最後には、この「米英中」にソ連が加わり、「米英中ソ」と戦争することになった大日本帝国。
そして、敗戦(終戦)に至りました。
第二次世界大戦を「太平洋戦争」と呼ぶのは、連合国最強国・米国との戦いが正念場だったからです。
そして、大日本帝国が戦争した戦場を指して「アジア・太平洋戦争」という呼び方もあります。
確かに、大日本帝国は「遠い欧州では戦闘に参加していない・参加出来なかった」のが現実です。
その一方で、確かにドイツと日本は、軍事技術提携など綿密な同盟関係にあり、共に戦っていたのでした。
そのため、「太平洋戦争」と「アジア・太平洋戦争」の呼称は、正しくないと筆者は考えます。
いずれも「戦争の現実を矮小化」しており、「第二次世界大戦」と呼ぶのが正しいです。
あるいは、「日本(大日本帝国)側の視点」では「「大東亜戦争」と呼ぶのも正しい呼称です。
ただし、「太平洋戦争」という言葉は一般的であり、メディアでも多用されているので「使用は良い」と考えます。

現代の日本の感覚では、事実上「世界中で戦争を繰り広げた」感覚の第二次世界大戦。
戦後、「大日本帝国」から「日本」という名称に変わった日本政府は、各国で将兵の慰霊を実施しています。
上の写真は、各国で「慰霊の場」を作った場所が番号で振られています。

ニューギニアでは、127,600名の戦死者が出ました。

硫黄島では、21,900名の戦死者が出ました。
「硫黄島」に関しては日本、政府の正式呼称は「いおうとう」ですが、ここでは「いおうじま」と表記されています。
この呼称に関しては、筆者は「どちらでも良い」と考えます。

フィリピンでは、518,000名の戦死者が出ました。
これらの死者の数は「概算」であり、政府と雖も「完全な把握は不可能」です。
遊就館「「終戦80年戦跡写真展 今も残る英霊の足蹟」展は、2025年12月7日(日)まで開催です。
筆者が先週に訪問したため、終了直前のお知らせですが、お時間ある方はぜひ訪問して下さい。
特に、歴史に興味がある中高生にお勧めしますが、大人も大学生も小学生もぜひ。
次回は上記リンクです。

