前回は「各地に残る「第二次世界大戦の慰霊の場」〜戦争の爪痕・終戦(敗戦)後80年の節目の年・敗戦後の日本政府の事業〜」の話でした。
世界中で戦った大日本帝国:戦死した将兵たちの慰霊碑

第二次世界大戦で、日本(大日本帝国)軍が実際に戦ったのは東アジア・太平洋です。
「世界の一部で戦闘を行った」のが日本ですが、感覚的には「世界中で戦った」のが現実でした。

日独伊三国(軍事)同盟を締結した大日本帝国は、米英中と戦争を繰り広げました。
ドイツは主に欧州およびアフリカで、大日本帝国は主に東アジアと太平洋で戦争しました。

終戦(敗戦)後、日本政府は各地で異例の場を建立し、将兵を鎮魂しています。

ニューギニアでは、127,600名の戦死者が出ました。

硫黄島では、21,900名の戦死者が出ました。

フィリピンでは、518,000名の戦死者が出ました。

ミャンマー(ビルマ)では、137,000名の戦死者が出ました。

マリアナ諸島周辺は、110,300名の戦死者が出ました。
これらの「慰霊の碑」は、アジア・太平洋に広がる碑の一部です。
戦地で戦う将兵たちの「魂の叫び」遺書:戦争の現実

この展示では、戦場に赴いた将兵たちの遺書も展示されています。
このように、公開される遺書は「将兵」の中で、実際に最前線で戦う「兵」の遺書が多いです。
指揮官である「将」も遺書を遺すことがありますが、「兵」の方が「先に戦死する」可能性が高いです。
米軍将校S第二次世界大戦では、
Japanの兵は、実に勇敢だった・・・



最も優れて居たのは、
最前線の将兵と下士官たち・・・



ダメだったのは、最上部の
将校たちだな・・・
エリートであった将校たちも懸命に奮戦した例もあり、将校も兵も一括りには出来ません。
その一方で、米軍将校からこのように評価されたのは「一つの真実」を表しています。


上の写真は、生まれる我が子を見ることが出来ずに、戦死してしまった兵の遺書です。


戦場に赴く将兵たちは、戦争末期には「極めて劣勢である」ことも、ある程度認識していたでしょう。
そもそも、国内情勢がかなり厳しい状況であり、「食べる物」すら限定されて居たのが当時の日本でした。


様々な戦地から出されて手紙には、将兵たちの「魂の叫び」が如実に表れています。


ガダルカナル島の砂鉄で作成された日本刀も展示されていました。
日米戦の超激戦地となったガダルカナル島。


ガダルカナル島は、太平洋の南東の端の方にある、小さな小さな島です。
戦時中は食糧も武器も枯渇した中、大日本帝国の将兵はガ島で戦い続けました。
食べ物もない異常事態のなか、ガ島はいつしか「飢餓(きが)の島」となりました。
そして、飢餓の意味とガダルカナル島から、「ガ(餓)島(がとう)」と呼ばれるようになりました。
この地で、大日本帝国軍と米軍は死闘を繰り広げ、多数の方が亡くなりました。
遊就館「「終戦80年戦跡写真展 今も残る英霊の足蹟」展は、本日2025年12月7日(日)まで開催です。
特に、歴史に興味がある中高生にお勧めしますが、大人も大学生も小学生もぜひ。

