前回は「江戸城開城直後に「急速作成+公表」の五箇条の御誓文〜理想を強力推進した木戸孝允・由利原案に込めた「因習破壊」の思い〜」の話でした。
「封建制度の象徴」であった徳川幕府:「ガタガタ」だった明治新政府

西郷隆盛徳川幕府を
ぶっ潰す!



西郷は大嫌いだが、
徳川はもっと嫌いだ!



もはや、幕府の時代ではなく、
新たな国家体制になるべきだ!



昔の朝廷中心の
政治に戻すのだ!
明治維新を経て、徳川幕府の時代から明治の時代へと変わった日本。
後世から見ると、この「徳川の時代から明治天皇の時代へ」の流れは、ある意味で必然でした。
当時、「屋台骨がガタガタだった」と表現されることが多い徳川幕府。


その一方で、幕末において徳川幕府には極めて優れた人物がキラ星の如く、存在しました。
後に、1871年に米国など欧米各国を回った岩倉使節団。
岩倉使節団において、岩倉達は「大失態」をやってしまいました。



困ったな・・・
全権委任状か・・・



そんなに大事な書類を忘れて
しまったか・・・
「全権委任状を持参しないまま、外交交渉に向かう」という、「外交の常識」以下であった新政府。
「全権委任状忘れ」に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
幕末に処刑された元勘定奉行(財務大臣)だった小栗忠順(おぐり ただまさ)。
小栗が、もし、この時生きていたら、



全権委任状を
忘れた、だと・・・



ふっ、
笑わせるな!
岩倉、木戸、大久保に向かって、こう言い放ったでしょう。
ひょっとしたら、「ガタガタだった」のは徳川幕府ではなく明治新政府だったのかもしれません。
実は強大な力を有しており、優れた人物が多数いた徳川幕府。
問題があったのは「封建制度」という制度そのものであり、徳川幕府ではなかったと考えます。
その意味では、「封建制度のみ潰せば維新成立」でしたが、「封建制度=徳川幕府」だった当時。
いわば「封建制度の象徴」であった徳川幕府を潰す必要が、新たな時代には必要でした。
「討幕の密勅」の謎:明治維新成し遂げた新官軍の大義名分


そして、強大な「日本政府」であった徳川幕府を倒すためには、「強烈な大義名分」が必要だった薩長。



大義名分は、
この討幕の密勅だ!



勅とは、
天皇の命令であり・・・



天皇は、徳川将軍の上なのだから、
絶対的なのだ!
1867年10月13日には、薩摩藩に「討幕の密勅」が下されました。





我ら長州藩にも
密勅が下った!



「徳川慶喜を討て」と
勅にある・・・



我が長州藩が
幕府を倒すのは、天皇のご意志なのだ!
翌日1867年10月14日には、長州藩に「討幕の密勅」が下されました。
この二つの「討幕の密勅」を見た時、ある種の疑念を感じざるを得ません。
次回は、薩摩と長州の「討幕の密勅」を比較して、考えてみましょう。


