前回は「「いつも軍服」だった真面目な東條英機〜軍服の怖いイメージ・険悪な仲だった陸海軍の親睦会・中国大陸における陸海軍の戦い・1940年の陸海軍大将会〜」の話でした。

好青年だった若き東條英機:陸軍士官の模範となった「逆賊」東條英教

上の写真は、若き青年期の東條英機の写真です。
おそらく、20代後半頃の写真だと思われます。
この写真を見ると、いかにも「立派で知的な青年」です。
時代が違うので「戦前の雰囲気」が漂っていますが、現代風の服装にしたら「現代風好青年」になるでしょう。

東條英教英機よ!
陸軍士官学校に進み、陸軍軍人となるのだ!



はいっ!
一生懸命頑張ります!
1884年生まれの東條英機の父親である東條英教は、1855年に盛岡藩に生まれました。
若き頃から軍人に大きな興味があった英教は、進んで陸軍士官となりました。
ところが、明治維新の際には、盛岡藩は奥羽列藩同盟に加わり、新政府軍に反抗したため、



我が盛岡藩は
逆賊扱い・・・
「逆賊扱い」となった東條英教は、新政府から「冷たい扱い」を受けました。



とにかく、俺は
戦い続けるのだ!
そして、闘志盛んであり、優れた陸軍軍人であった東條英教は、明治政府のために尽くしました。





薩摩を倒しに、
向かうのだ!
そして、1877年に勃発した西南戦争でも大活躍した東條英教。
西南戦争の話を、上記リンクでご紹介しています。



この佐川官兵衛、
薩賊を討滅してくれる!
西南戦争では、旧会津藩士が旧薩摩藩士に対して「恨みを晴らす」場になりました。
ここで、東條英教もまた「会津と似た立場」でしたが、英教は冷静にそして果敢に戦いました。



陸軍士官学校を設立したが、
さらに優れた人物を育てよう!
「とにかく欧化」だった明治新政府ですが、「軍の強化」が最優先でした。
そのため、「陸軍士官のための大学院」である陸軍大学校を1882年に設立しました。



陸軍大学校に
進むのだ!
そして、陸軍大学校に一期生として入学した東條英教は猛勉強を続け、



陸軍大学校を
首席卒業!
選りすぐられた超優等生10名の中で、1885年に首席卒業となったのが「元逆賊」東條英教でした。
いわば、「陸軍士官の模範」となったのが東條英教でした。
ちょうど、この頃に三男として誕生した東條英機。



父上のように
なるのだ!
若い頃から、必死で勉強しました。
「何事も暗記」の東條流学び:「暗記中心」だった陸士と海兵の教育


そして、猛勉強に猛勉強を続けた東條英機は、陸軍幼年学校、陸軍士官学校と順調に進みました。
まさに、当時の「陸軍士官の超エリートコース」を直向きに走り続けた東條英機青年。



とにかく勉強、
いつも勉強だ!
若い頃から、異常な熱意で勉強し続けた東條英機は、どこから見ても「模範的学生」でした。
様々な説がありますが、この頃の陸軍士官学校・海軍兵学校の教育は「暗記中心だった」説が有力です。


硬い雰囲気の陸軍軍人からは、「陸軍士官学校批判」は少ないです。
対して、リベラルな雰囲気の海軍軍人からは「海軍兵学校批判」が多数出ています。





海兵の教育、
懐かしいな・・・



あの教育は、いわば
「弾圧注入教育」だからな・・・
海軍兵学校での教育を「弾圧注入教育」と表現した山本五十六。
海軍兵学校は「スパルタ」を超えた「超スパルタ教育」でした。
海軍兵学校の教育に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
「弾圧注入教育」という言葉を聞くと、だいたい「どのような教育だったか」が想像されます。
他にも、海軍兵学校を卒業し、海軍省・軍令部・連合艦隊で幹部となった人物からは、



海兵の教育は、
暗記が多すぎる・・・



あんなに暗記ばかりさせては、
発想が固化してしまう・・・



海兵の教育は、見直すべきであったし、
大変良くない!
「暗記ばかりであった」とされる海兵の教育に対しては、同様な声が多数聞かれます。
陸士の教育に対しては、陸軍軍人からの批判は少ないものの、似た雰囲気だったのは間違いありません。



たくさん勉強して、
たくさん暗記しなければ!
そして、若い頃から東條英機は「全て暗記に頼る」姿勢を明確にしました。



教科書を全て丸暗記すれば、
試験は絶対OKだ!
「何事も暗記」の「東條流の流儀」を、若い頃に確立した東條英機。
確かに、算数・数学以外は、「参考書を丸暗記」すれば、大体の試験問題は回答できそうです。
筆者は、算数・数学の学びにおいて「解法の暗記」を全く勧めませんが、確かに「解法の暗記」はある程度強力です。



暗記、暗記で
頭に入れれば良いのだ!
この「全て暗記」の姿勢は、大人になっても続きました。
そして、東條英機は「何事もメモする」超真面目な大人に成長しました。



