全国支配体制固めた「守護代」の存在〜日本の国家像変えた源頼朝・巨大化して頭角を現した守護代たち〜|日本史における大名3・中学受験

前回は「守護と地頭による鎌倉幕府の「武力政権」樹立〜日本史に大転換を引き起こした源頼朝・各地の大名小名を任命・地頭より遥かに強力だった守護〜」の話でした。

目次

日本の国家像変えた源頼朝

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鎌倉幕府初代将軍 源頼朝(Wikipedia)
源頼朝

この源頼朝が
武家政権を樹立します!

日本の歴史上、初めて「武家政権=武力政権」を成立させて源頼朝。

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太政大臣 平清盛(Wikipedia)

源氏が実権を握る前は、平氏が実権を握った時代が続きました。

古来から天皇が率いる朝廷によって政治が行われ、統治されていた日本の国家像。

隣国の中国では、早い時期から武力による抗争が行われ続けていましたが、日本は比較的平和でした。

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魏王 曹操(Wikipedia)
曹操

この曹操が
中国の覇者となるのだ!

歴史好きの人の中には、「三国志が好き」という人が多数います。

筆者は小学生から中学生・高校生の頃に、三国志に関する本を多数読みました。

三国志は「魏・呉・蜀の三国」が覇を競った物語ですが、概ね180年〜250年頃の話です。

日本が縄文時代で比較的「のどかな時代」だった頃、中国では「武力による争い」が頻発していました。

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そして、日本においても、「武力による統治」が各地で芽生えて、大名・小名が生まれました。

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朝廷・貴族による統治の中、武家たちが争い初めて、様々な大乱が頻発する時代となりました。

前九年・後三年の役に関する問題の話を、上記リンクでご紹介しています。

年号合戦名
1051年前九年の役
1083年後三年の役
1156年保元の乱
1159年平治の乱

上の四つの合戦・乱が発生し、日本における「武力による統治」の訪れを暗示していました。

源頼朝

もはや、こうなったら
武力によって世を治めるしかない!

源頼朝

そして、我が源氏が
頂点に立ちましょう!

そして、源頼朝によって、日本の国家像は大きく変わりました。

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全国に守護・地頭を設置した「武力統治体制」を確立した頼朝。

特に「強力な守護」の存在によって「全国に睨みを効かせた」のでした。

全国支配体制固めた「守護代」の存在

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今回は「守護と守護代」の話です。

今回も、罫線がないノートで自由な発想で、まとめてゆきましょう。

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各国の「軍事指揮官・司令長官」の役目を果たす存在だった守護。

平安時代末期から、自然発生的に各地に大名・小名が生まれましたが、その中、

源頼朝

鎌倉幕府が任命する
守護には、強力な軍事力を与える!

新たに「幕府」という政治機構が成立し、「国のトップ=守護」が確立しました。

実は、「幕府」という言葉は当時なく、江戸時代頃以降生まれた言葉です。

「幕府」という言葉がなくても、「源氏による政権」の確立は全国に知れ渡りました。

源頼朝

奥州で独立国のような
藤原氏を討滅する!

弟・義経との確執もありましたが、奥州・藤原氏に一方的に攻め込んだ頼朝。

源頼朝

日本全国の
大名・小名たちよ!

源頼朝

この頼朝の
指示に従え!

各地の大名・小名

ははっ!
頼朝様の下知(命令)に従います!

全国各地へ動員令を下し、自ら奥州に攻め込んだ頼朝。

この「総動員」には、はるか遠くの薩摩・島津氏にも下った記録が残っています。

現代でも「遠い」九州から東北地方までの道のり。

例えば、鹿児島から仙台まで飛行機で行くなら良いですが、新幹線など電車では時間がかかります。

当時、「薩摩(鹿児島)から奥州(東北地方)へ攻め込む」のは大変だったでしょう。

島津家

我が島津家に、
頼朝様から下知が降った!

島津家

者ども!
奥州へ攻め込むのだ!

奥州・藤原攻めは、「目の上のたんこぶ」をつぶした意味もありましたが、

源頼朝

各地の守護・地頭は
私の命令に従ったな・・・

源頼朝

これで、源氏の支配体制は
確立されたのだ!

「源氏の支配体制確立」のために、「外部の強敵をつぶした」要素が強いです。

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守護の職には、「一人で複数の国の守護を兼ねる」人物も登場しました。

島津家

我が島津は、もともと
薩摩などの有力大名だった・・・

島津家

頼朝様の信任厚く、
薩摩・大隅・日向の守護を命ぜられた・・・

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あるいは、「国のトップ」であった守護は、中央政府や各国などに出張する場合もありました。

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この場合、各国の「司令長官が不在」となる事態になります。

現代ならば、少し遠くても「日帰りで出張」も可能ですが、当時は飛行機も新幹線もありません。

また、当時は船は比較的使われていて便利でしたが、「陸地の移動」が多いです。

そのため、自国の外に「主に馬・または徒歩で移動」するしかなく、

守護X

〜国に
所用があるが・・・

守護X

移動を含めると
数ヶ月はかかるな・・・

「守護=司令長官」不在の期間が、数ヶ月あることも多かったでしょう。

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現在の知事よりも遥かに強力だった守護が不在では、その国は困ってしまいます。

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そこで、「守護のわり」として「守護」が任命されました。

巨大化して頭角を現した守護代たち

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守護の「わり」または「理」であった守護代は、いわば「臨時司令官」の役割でした。

守護代Y

私が守護代となって、
国を治めましょう!

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「臨時の代理」であったものの、守護不在の場合は「守護の権限を行使」が可能であった守護代。

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やがて、守護代に権限が集中する事態も発生しました。

あるいは、

地頭S

守護よりも
守護代の方が頼りになる・・・

地頭S

これからは守護代を
中心にして、国を治めよう!

このように、人物の器量によっては、「守護代の方が良い」という声もあったでしょう。

あるいは、現代よりも「一族の力」が重視された当時。

「守護一族」よりも「守護代一族」の方が強力になった国もありました。

守護代Y

私は「代理」の
守護代だが・・・

守護代Y

この国は、私が
治めるのがベストだろう・・・

様々な要因によって、守護代が「のし上がってゆく」現象が各地で見られるようになったのでした。

次回は上記リンクです。

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