「終戦」閣議決定から昭和天皇御裁可へ〜阿南惟幾「わたしの最後のお願い」「詔書深夜発表は不測の事故発生」・大元帥陛下と三名の陸海軍元帥〜|ポツダム宣言から敗戦の真相60

前回は「帝国政府と大本営大幹部全員を諭した昭和天皇「終戦に関する詔書の準備をして欲しい」〜「現人神」の巨大決断・陸海軍三元帥に服従命じた天皇〜」の話でした。

目次

「終戦」閣議決定から昭和天皇御裁可へ:大元帥陛下と三名の陸海軍元帥

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左上から時計回りに、昭和天皇、畑俊六陸軍元帥、杉山元陸軍元帥、永野修身海軍元帥(国立国会図書館、
Wikipedia)

1945年8月14日に開催された、大日本帝国最後の御前会議。

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「大日本帝国最後の四か月」(迫水久常著、新教育紀行)

当時、内閣書記官長(内閣官房長官)だった迫水久常は、克明に当時の状況を記録に残しました。

大日本帝国最後の四か月

この御前会議が開かれる直前に、
陛下は、杉山元、畑俊六の陸軍二元帥と、

大日本帝国最後の四か月

海軍の永野修身元帥の
三人を特にお召しになり、

大日本帝国最後の四か月

終戦の決意を
伝えられた。

名前生年職務
昭和天皇1901天皇・大元帥陛下
畑俊六1879第二総軍司令官・陸軍元帥
杉山元1880第一総軍司令官・陸軍元帥
永野修身1880海軍元帥
終戦時の大元帥・元帥

終戦時、大日本帝国には、上の四名の大元帥・元帥が存在しました。

超越的存在だった「唯一人」の大元帥陛下は、昭和天皇でした。

上の職務にある「第一総軍司令官」は、本土決戦の「第一総軍」の司令官です。

同様に、「第二総軍司令官」は、本土決戦の「第二総軍」の司令官です。

軍名本土決戦の防衛管轄
第一総軍東日本
第二総軍西日本
本土決戦の帝国陸軍編成

上の表の通り、「第一総軍は東日本防衛」「第二総軍は西日本防衛」と役割分担がされていました。

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大日本帝国の統治機構:天皇と帝国政府と大本営(新教育紀行)
昭和天皇

帝国陸海軍は、朕の命令に
服従せよ。

畑俊六

はっ、
承知いたしました。

杉山元

必ず、陸軍大臣、参謀総長の
協力を取り付けます。

永野修身

私も必ず、海軍大臣、軍令部総長の
協力を取り付けます。

いわば「陸海軍の元帥」ならぬ「陸海軍の長老たち」に協力を求めた昭和天皇。

軍部が反乱を起こす可能性が高い状況だった当時、昭和天皇は、軍部の長老たちに「軍部若手の手綱を握る」ことを強く要請したのでした。

大日本帝国最後の四か月

最後の御前会議が終わったのは、
ちょうど正午である。

1945年8月14日正午、御前会議が終了し、玉音放送まで「丸一日」となりました。

大日本帝国最後の四か月

閣僚たちは、各々の思いを胸底に深く秘め、
皇居を退出した。

大日本帝国最後の四か月

午後一時から引き続き、総理大臣官邸で
閣議が開かれることになっていた。

大日本帝国最後の四か月

打ち揃って帰ってきた悪霊たちは、
午後一時カッキリ閣議室に集まった。

大日本帝国最後の四か月

陛下のご決断が伝えられた後なので、
誰も異見をさしはさむ者はいない。

大日本帝国最後の四か月

ここでやらなければならないことは、
ポツダム宣言を受諾することによって、

大日本帝国最後の四か月

戦争を終結させる旨の
閣議決定である。

大日本帝国最後の四か月

異議は
ない。

大日本帝国最後の四か月

全員揃って
署名した。

迫水久常

・・・

大日本帝国最後の四か月

陛下のお言葉によって、終戦への方向は決まっているが、
立憲政体下の責任内閣なので、

大日本帝国最後の四か月

その建前から各閣僚の意思と責任
において閣議決定を行い、

大日本帝国最後の四か月

かたちの上で、改めて陛下の御裁可を
受けることになっていたからである。

当時、「主権者」だった昭和天皇。

「主権者」でしたが、「明確な最終意思決定者ではなかった」のが現実でした。

あくまで「帝国政府が決定したこと」を「裁可=追認」する立場だった昭和天皇。

明確に「終戦へ」の帝国政府の手続きとして、従前通り「裁可=追認」という「建前」の流れは重要でした。

大日本帝国最後の四か月

閣議決定書の署名が終わると、
直ちに終戦に関する詔書の審議が始まった。

阿南惟幾「わたしの最後のお願い」「詔書深夜発表は不測の事故発生」

新教育紀行
皇居(新教育紀行)

ここで、「大日本帝国最後の四か月」は詔書作成の説明が続きます。

この部分も重要な点ですが、先を急ぎ、「詔書が完成した」時点に飛びます。

大日本帝国最後の四か月

閣僚も皆、
詔書を了承してくれた。

大日本帝国最後の四か月

こうして出来上がったのが、
あの終戦の詔書である。

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国立公文書館東京本館”終戦”展(新教育紀行)

終戦の詔書は、現在、国立国会図書館に保存され、国立公文書館で展示されています。

公文書館に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

大日本帝国最後の四か月

八月十四日午後八時半、
通常の裁可書類通達のルートによって、

大日本帝国最後の四か月

陛下のお手元に
届けられた。

大日本帝国最後の四か月

陛下はご嘉納あそばされて御名を記され、
御璽を押さしめられた。

昭和天皇

・・・・・

これから、正式に「終戦=敗戦」し、「主権者ではなくなる」ことが明確であった当時。

昭和天皇にとっては、「大日本帝国総括者として、事実上最後の記名と御璽の押印」となりました。

大日本帝国最後の四か月

これで詔書は内閣へまた回付され、鈴木総理をはじめ
各大臣が副署というサインをする。

大日本帝国最後の四か月

この後、印刷局へ回され、官報の号外として
交付の手続きがとられるわけである。

大日本帝国最後の四か月

昭和二十年八月十四日午後十一時、
印刷局から官報号外として発布される終戦詔書の手続きは、

大日本帝国最後の四か月

滞りなく
終わった。

いよいよ、運命の昭和二十年八月十五日まで「あと一時間」となりました。

大日本帝国最後の四か月

日本国内に対する作業は、全て終わりを
告げたわけだが、

大日本帝国最後の四か月

次に米、英、ソ、中の四カ国にポツダム宣言を
受諾する旨の連絡を正式にとらなければならない。

ここで、いよいよ連合国に対して、「ポツダム宣言受諾の正式連絡」となりました。

大日本帝国最後の四か月

この作業は外務省の担当で、
八月十日の通告と同じように、

大日本帝国最後の四か月

スイス及びスウェーデンの
政府を通じ、伝達された。

伝達依頼国伝達先
スイス米、華(中国)
スウェーデン英、ソ
連合国への返答伝達依頼国と伝達先国

この後に及んでも、なお、「米、英、ソ、中へ直接」ではなく、スイスとスウェーデンを仲介役とした帝国政府。

何とも、「回りくどい」姿勢を貫き続けたのでした。

本来ならば、「一分でも早く」というよりも「一秒でも早く」「米、英、ソ、中へ直接連絡」すべきでしたが、従前の方式を取り続けた帝国政府。

大日本帝国最後の四か月

連合国に対するポツダム宣言受諾の通知は、
八月十四日の夜、直ちに行われたが、

大日本帝国最後の四か月

国内向けの公表は、阿南陸相の主張によって、
翌八月十五日正午まで延期されることになった。

大日本帝国最後の四か月

終戦の詔書の成文が出来上がった直後、
阿南陸相は、鈴木総理以下、内閣の関係者に対して、

大日本帝国最後の四か月

次のように
要望した。

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左上から時計回りに、昭和天皇、鈴木貫太郎内閣総理大臣、阿南惟幾陸軍大臣、梅津美治郎参謀総長(国立国会図書館、
Wikipedia)
阿南惟幾

日本は、いよいよ戦争を終結することになり、
連合国側にポチダム宣言受諾を通知する段階になったが、

阿南惟幾

国内向けの発表は、夜が
明けてからにしてほしい。

阿南惟幾

もし、この詔書の内容を深夜に発表したら、
国民全員はもとより、

阿南惟幾

ことに軍の衝撃は大きく膨れ上がり、
不測の事故が発生しないとも限らない。

阿南惟幾

わたしの最後の
お願いだが、

阿南惟幾

詔書の公表は、夜が明けてからにして欲しいと
思うが、いかがなものだろう。

そして、ここで、阿南陸相は、強硬に「翌日の公表」を主張し、受け入れられました。

大日本帝国最後の四か月

私は、この時、
阿南陸相が、

大日本帝国最後の四か月

“最後のお願いだが・・・”と言われた言葉について、
色々な感慨を抱いたのを覚えている。

阿南陸相が語った「わたしの最後のお願い」という言葉。

この言葉は現実となり、確かに阿南陸相の「最後のお願い」となりました。

現在は「終戦記念日」とする八月十五日の前日である八月十四日。

現在2026年の81年前の八月十四日は、様々な人が様々な思いを抱いて、八月十五日を迎えようとしていました。

そして、栄ある大帝国であった大日本帝国は、確実に向かっていました。

「初の敗戦」であり、「初の降伏」へと。

新教育紀行

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