前回は「昭和天皇「わたしの意見に賛成してほしい」〜大日本帝国最後の御前会議・反対意見封殺の鈴木首相・迫水久常「からだ全体が耳のように」〜」の話でした。
涙を拭いさとすように話した昭和天皇

大日本帝国最後の御前会議が、1945年8月14日に開催されました。
ポツダム宣言受諾後、御前会議が開催されることがあったかもしれませんが、事実上「最後」でした。
昭和天皇うむ・・・
うむ・・・
昭和天皇は、「再照会論者」であった陸海軍三首脳の話を、うなずきながら聞きました。


この時の御前会議の模様を、迫水書記官長は、細大漏らさずに記録に残しました。
「全身を耳の様に」して、



私が責任持って
全てを記録に残すのだ・・・
迫水書記官長は、文字通り内閣「書記官長」として、「書記」の責任を負いました。



陛下はうなずいておられたが、
やがて口を開かれ、まずこう言われた。



他に意見がない様だから、
これから、わたしの意見を述べる。



皆のものは、
わたしの意見に賛成してほしい。



ここまで発言されたが、
そのお言葉は、とぎれとぎれで、



腹の底から絞り出されるような
お声だった。



陛下の苦悩がどんなに深く、大きなもので
あるかが最後列にはべっている私にもよく分かった。



陛下は真っ白い手袋をはめておられたが、
その手が何度となく頬のあたりへ上がり、



涙をぬぐっておられる
ようだった。



列席した一同も
たまりかねたのか、みんな泣いていた。



もちろん、私も
泣いた。



ううっ・・・



ううっ・・・



ううっ・・・



ううっ・・・



ううっ・・・



ううっ・・・



ううっ・・・



陛下は、みんなをさとすような口ぶりで、
ゆっくりと次のような話をされた。
事実上、最後の御前会議に列席していた大日本帝国政府・大本営の最高責任者たち。


1868年に明治維新が成立し、明治元年となり、徳川幕府の時代は「終了」しました。


そして、「1868年から明治時代」と歴史の授業では習いますが、実情は少し異なります。
実際には、薩長を中心とする「官軍」たちは、「強引に徳川時代を終了させた」のでした。
現に1868年当時は、榎本武揚率いる旧幕臣たちが蝦夷で共和国を成立させていました。
そして、榎本らの「蝦夷共和国」を、大英帝国、フランスは「事実上の政権としての承認」を部分的に与えていたのもまた事実でした。
この「徳川幕府と決戦の最中」という状況の中、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通、岩倉具視らは、「無理やり1868年=明治元年にした」のが実態でした。
そして、西南戦争などの大内戦を経た後、1889年にようやく大日本帝国憲法公布となりました。


「国家の根幹」である憲法が成立、交付されたのは、ようやく明治22年のことでした。
そして、天皇のもと、帝国政府と大本営が「両立する」異形の国家が築かれたのでした。
大日本帝国憲法のもと、「君臨すれども統治せず」の姿勢を貫いていた昭和天皇。
1945年8月、明治維新から78年の時が経過していました。



・・・・・
現代では想像が困難な人もいると思いますが、「栄ある大帝国」だった大日本帝国。
明治維新によって成立した大日本帝国という国家が、終わりを告げようとしていました。
やがて、昭和天皇は、終戦へ向けて語り始めました。
「臣下」たちに、ゆっくりと。
「自分の身はどうなってもよいから、国民のいのちを助けたいと思う」





三人が反対する気持ちは
よく分かるし、その趣旨も分からないではないが、



私の考えは、
この前言ったのと変わりがない。



わたしは、国内の事情と世界の現状を十分
考え合わせて、



これ以上戦争を続けるのは
無理だと思っている。



国体護持の問題について、それぞれ
おそれているようだが、



先方の回答分をよく読んでみると、
悪意をもって書かれたものとは思えないし、



要は、国民全体の信念と覚悟が
できているかどうかに問題があると思うので、



この際、先方の回答をそのまま受け入れても
よろしいと考えている。
昭和天皇は、連合国(米国)の回答を「そのまま受け入れてもよい」と明言しました。



陸海軍の将兵にとって、武装解除や
保障占領ということはたいへん辛く、堪えがたいにちがいない。



それは
よく分かっている。



また、国民が玉砕して
国のために殉じようとする心持ちもよく分かるが、



わたし自身は、自分の身はどうなってもよいから、
国民のいのちを助けたいと思う。
前回に続き、昭和天皇は「自分の身はどうなっても良い」と明言しました。
この時点では、「昭和天皇が無事に済む」確率は「ゼロに近い」状況でした。
「ゼロに近い」と表現するよりも、「事実上ゼロ」でした。
後世の視点では分かりにくいですが、「連合国が昭和天皇になんらかの刑罰を課す」も十分に考えられた当時。
そして、この「刑罰」は、この時点では「あらゆる可能性」が考えられました。
昭和天皇は、大日本帝国を率いる「最高責任者としての意思」を明言しました。
「わたしにできることならなんでもする」「復興という光明をつかむ」





このうえ、戦争を続けたら、結局のところ、
我が国は全くの焦土となり、



国民はさらに苦痛を
なめなければならない。



わたしは、そんな惨状を目の当たりに
するわけにはいかない。



この際、和平の手段に出ても、もとより先方のやり方に
全幅の信頼はおけないかもしれないが、



日本という国が全くなくなってしまうという
結果に比べて、



生き抜く道が残っておるならば、更に復興という
光明をつかむこともできるわけである。
事前に原稿を用意していたであろう昭和天皇は、原稿を読まずに理路整然と語りました。



わたしは、明治天皇が三国干渉の時に
なめられた苦しいお気持ちをしのび、



いまは耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、
将来の回復に期待したいと念じている。



これからの日本は、平和な国として再建しなければ
ならないが、その道は大変険しく、



また、長いときを貸さなければならないと思うが、
国民が心を合わせ、協力一致すれば、



必ず達成できると
考えている。



わたし自身も国民と共に
努力する覚悟である。
戦前、というよりもこの時は「戦前の最後」でしたが、国民にとって「超越的存在」であった天皇。
その昭和天皇は、「国民と共に努力」と、「超越的立場」を自ら放擲しました。



今日まで、戦場に出かけて行って戦死したり、
あるいは内地にいて不幸にも亡くなったものや



その遺族たちのことを思うと、
悲嘆に堪えない。



戦傷を負ったり、戦災を被ったり、
家業を失ったものの今後の生活について、わたしは心を痛めている。



この際、わたしにできることなら
なんでもするつもりでいる。
昭和天皇は「わたしに出来ることなら、なんでもする」と明言しました。



!!!!!!!



!!!!!!!



!!!!!!!



!!!!!!!



!!!!!!!



!!!!!!!



!!!!!!!
この言葉は、当時の日本人にとって「信じられない言葉」でした。
昭和天皇がこの気持ちであれば、臣民であった人物たちもまた「なんでもする」べきでした。



国民は、今何も知らないでいるので、
和平を結ぶことを聞くと、



きっと動揺すると思うが、
わたしが直接国民に呼びかけるのが一番良い方法なら、



いつでもマイクの
前に立つ。
ここで、昭和天皇は「玉音放送」を自ら申し出ました。



ことに陸海軍の将兵の動揺は大きく、
陸海軍の大臣は彼らの気持ちをなだめるのに



相当の困難を感ずるだろうが、
必要があるなら、わたしはどこへでも出掛けて行って、



親しく
説きさとしても良い。
そして、簡潔でありながら、完璧なまでに全てのポイントをまとめて、縷々と昭和天皇が語った言葉。
当時の大日本帝国で問題となっていた事柄全てに対して、明確に「天皇としての最終決定」を与えました。



・・・・・・・



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・・・・・・・
そして、ようやく大日本帝国は、正式に降伏へ向かうことになりました。
「ポツダム宣言と連合国回答の条件」を受諾しての「連合国への正式降伏」へ、と。

