前回は「昭和天皇「初の御前会議招集」へ〜「突然のお召し」に狼狽する大臣・統帥部長花押を無断使用した迫水久常・軍部の絶大な影響力と御前会議〜」の話でした。
御前会議と「終戦の御詔書」の行方:禁断の策「昭和天皇自ら御前会議召集」

昭和天皇本日十時に
参内せよ。
1945年8月14日、昭和天皇は「極めて異例」の「天皇自らの御前会議招集」に踏み切りました。
これには、当時の大日本帝国の「国家運営の重大な秘密」が背景にありました。
形式的であったとは言え、「最高意思決定の場」であり、「国家主権者」であった昭和天皇の裁可を得る御前会議。


御前会議開催には、通例ならば、両統帥部長(参謀総長、軍令部総長)の花押が必要でした。
ところが、梅津参謀総長と豊田軍令部総長は「終戦反対派」であり、それを得るには、少なくとも時間がかかります。
この「御前会議に両統帥部長の花押が必要だった」という事実だけでも、両統帥部長の権限の強さが分かります。
たとえば、参謀総長が「花押拒否」をすれば御前会議は開催されず、「流れる」ことになります。


とにかく「異形の国家」だった大日本帝国は、統帥権を有した統帥部、そして統帥部の長である両統帥部長の権限が巨大でありすぎました。
そこで、迫水書記官長は「秘策」というよりも「禁断の策」に出たのでした。
昭和天皇に「御前会議開催をお願い」するのではなく、「昭和天皇自らが御前会議召集」という「禁断の策」でした。





皇居から帰ってきた鈴木総理は、
わたしをすぐ呼びつけた。



御前会議の席で、陛下は終戦の詔書を
お下しになるということだったが、



その用意は
出来ているかね。



わたしはびっくりしたが、
総理は手続きについて、



何か勘違いをしているようにも思えたので
こう返事した。



はい、一応の案は既に準備しておりますが、
終戦のご詔書は、



まず、閣議にかけて決定し、
それから陛下の御名と御璽をいただく性質のものです。



御前会議の席で、詔書を
お下しになると云うのは、



どうも
腑に落ちません。



・・・・・



総理もおかしいと思ったらしいが、
陛下からのお言葉でもあるので、



もう一度参内して
お伺いしてこよう。



と言い残し、再び
皇居へ向かった。


当時も今も皇居は東京の中心部にあり、まさに「東京のコア」とも言える存在です。
そして、「東京のコア」を超えて「日本国のコア」であり続けているのが、皇居という存在です。


当時、米軍から大空襲を受け続けていた東京は、ほぼ完全に灰燼に期していました。
絨毯爆撃の中、米軍は「ピンポイント爆撃」によって、皇居は出来るだけ避けて爆撃していました。
そのため、皇居周辺は比較的残存していましたが、空襲で多数の施設が焼け落ちていました。
この環境の中、鈴木総理は、皇居を行ったり来たり、まさに懸命に働き続けました。



八月の暑いさなかに
八十近い老首相が、



二度も続けて皇居へ足を
運ぶ姿を見て、



わたしは
目がしらが熱くなった。



総理
・・・
とにかく、一刻でも早く、適切に、首尾よく終戦へ。



・・・・・
鈴木総理は、77歳の身体で、懸命に動き回ったのでした。
大日本帝国「最後の御前会議」:陸軍省からの「覚えていろ」電話





日本の国を思い、
陛下の忠実な臣下として、



身命を投げ打って
奔走する鈴木総理の後ろ姿には、



純粋な光が
付きまとっているような感じがした。
大日本帝国においては、国家国民は全て「天皇陛下の臣下」でした。
当時の書籍において、著者が署名する際には、多くの場合で「臣 〜」と記載していました。
特に、一定以上の身分の人物が署名する際には、ほぼ必ず「臣 〜」と書きました。
そして、鈴木総理に「後光がさしていた」かのように描写した迫水書記官長。





この日、二度目の参内から
帰ってきた鈴木総理の顔には、



にこやかな
笑いがあった。



わたしを呼んで、
こう言った。



いやあ、やっぱり
君の言う通りだった。



御前会議の席では、陛下が
内閣に対して、



詔書を準備するように、
とお命じになるだけだそうだ。



どうも
ありがとう。
東京のみならず、日本全土が焦土と化し、絶望の縁にあったであろう鈴木総理たち。
それでも「にこやかに笑い」ながらも、懸命に、生命をかけて終戦へ突き抜けようとしていました。





リリリリリン、
リリリリリン・・・



その直前に
わたしは嫌な電話の声を耳にした。



陛下が最高戦争指導会議のメンバーと
全閣僚をお召しになるという話は、



いち早く陸軍省の内部に知れ渡ったらしく、
わたしの机の上の電話が突如鳴り出した。



わたしは
不吉な予感がしてならなかった。



リリリリリン、
リリリリリン・・・



この時分に
書記官長室への電話・・・



一体
誰からだろうか・・・



ガチャ・・・



受話器を
とると、



陸軍省の
者だが・・・



と前置きして、
声が流れてきた。



迫水書記官長だね。
君はまた我々の裏をかいたな。



これから、我々がどうするか、
覚えていろ!



・・・・・



脅迫の
電話である。



陛下からのお召しは、
陛下や鈴木総理の発案ではなく、



てっきり、書記官長であるわたしのさしがねだと
思っての抗議であり、脅しである。



実のところ、電話をしてきた
陸軍省の将校は図星をついていたが、



わたしは
嫌な気がした。



・・・・・
軍人に「覚えていろ!」と言われれば、誰だって「嫌な気がする」のが当然でした。



陸軍としては、参謀総長が
奏請の文書に署名、花押しない限り、



御前会議は開かれないので、
その間、時間を稼ぐつもりでいたらしいが、



思いがけない陛下からのお召しという
異例の措置が取られたので、



陛下からの
お召し、だとっ!



一体、なぜ
そんな事になるのだっ!



誰だっ!こんなこと
思いつきやがったのは!



迫水だなっ!
あの野郎っ!



いちいち俺たちの裏を
かきやがって!



怒ったに
違いなかった。
上の「陸軍省・軍部の声」は「大日本帝国最後の四か月」には記載なく、筆者が当時の状況を想像して描写しました。
それにしても「ドラマのような展開」となってきました。



君はまた
我々の裏をかいたな。
「こういう電話」は、映画やドラマではよく登場しますが、現実世界で起きていた1945年8月14日。
正に、大日本帝国全体が、映画・ドラマのような「非現実的世界」で覆われていた状況でした。
おそらく、当時の陸軍省は、陸軍の全力をあげて内閣周辺の電話などを盗聴していたのでしょう。
当時、どの国の政府内でも、多少の内輪揉めはありました。
ところが、とにかく「正式な意思決定」に「多数の手続き」が必要であり、内輪揉めが続いていた帝国政府。
この状況において、昭和天皇は「大日本帝国の頂点に立つ人物」として率先して、国家を牽引するため、



本日十時に
参内せよ。
「自ら御前会議召集」に踏み切りました。
そして、昭和天皇直々の「お召し=招集命令」によって、1945年8月14日10時から、いよいよ始まります。
大日本帝国「最後の御前会議」が。

