前回は「大本営「皇軍は戦闘継続」超直前差止作戦〜山本五十六「陸軍は梅津だ!」・国家を「分割運営」の帝国政府と大本営・大本営に「口出し出来ない」陸相〜」の話でした。
寸前に止めた陸軍「徹底抗戦発表」:「一分間がとても長い」日々

1945年8月13日、大日本帝国政府は、「ポツダム宣言+連合国追加通告」の受諾で揺れていました。
| 名前 | 生年 | 役職 | 連合国通告への姿勢 |
| 鈴木貫太郎 | 1868年 | 内閣総理大臣 | ?(受諾) |
| 米内光政 | 1880年 | 海軍大臣 | 受諾 |
| 梅津美治郎 | 1882年 | 参謀総長(大本営) | 再照会 |
| 東郷茂徳 | 1882年 | 外務大臣 | 受諾 |
| 豊田副武 | 1885年 | 軍令部総長(大本営) | 再照会 |
| 阿南惟幾 | 1887年 | 陸軍大臣 | 再照会 |
| 様々な大臣 | 1902年 | 文部大臣、軍需大臣など | さまざま |
様々な人物が、色々なことを言う中、全体的には「諸条件を呑んで降伏」の方向に向かっていました。
軍部大本営十三日
午後四時発表。



皇軍は新たに勅令を拝し、米英ソ支四か国軍隊に対し、
作戦を開始せり。
そんな中、このような発表を強行しようとしていた帝国陸軍。



いやあ、全然、
知らないね。



これは
知らない。
そして、この超重大発表を、阿南陸相、梅津参謀総長が「知らない」異常事態でした。


この前後の緊迫した状況を、迫水久常は「大日本帝国最後の四か月」に詳細に記録しました。



大本営の発表を、参謀総長が
全然知らないと言うのは、



どうも腑に
落ちない。



池田中将からの連絡を受けた
わたしは、とっさに、之は誰かが勝手に作った発表案で、



正式ものではないと
判断した。



そこで、池田中将から、梅津参謀総長に頼んで、
すぐ、取り消してもらう手筈を整えた。



池田長官、梅津総長に頼んで、
なんとか止めて頂けませんでしょうか。





承知した。
すぐに、梅津さんに頼もう!



時計の針は、午後三時半を
回っている。
帝国陸軍の「徹底抗戦」の発表まで、30分を切っている状況でした。



これは・・・
なんとかなるか?



あるいは、
発表になってしまうのか・・・
この時期、「一時間がとても長い」状況だった迫水久常。
いよいよ「一分間がとても長い」状況になりました。



まもなく四時になるという時になって、
やっと池田中将から電話連絡があった。



梅津さんに、あちこちに当たってもらった結果、
この発表を取り消すことになった。



新聞社や放送局へ手配して、
今、やっと措置を終わったばかりだ。



池田長官、
有難う御座います。



ああ・・・
良かった・・・
おそらく、迫水久常は、心底ホッとしたでしょう。
「参謀総長命令」無視の帝国陸軍:「独断専行」文化育んだ石原莞爾


この状況を、とても不思議に思った読者の方もいらっしゃると考えます。
まさに「帝国政府無関係」で、独走を続けていた帝国陸軍・大本営。
その帝国陸軍は、梅津参謀総長、阿南陸相が「きちんと握っていた」状況でした。
| 名前 | 生年 | 役職 |
| 鈴木貫太郎 | 1868年 | 内閣総理大臣 |
| 米内光政 | 1880年 | 海軍大臣 |
| 梅津美治郎 | 1882年 | 参謀総長(大本営) |
| 東郷茂徳 | 1882年 | 外務大臣 |
| 豊田副武 | 1885年 | 軍令部総長(大本営) |
| 阿南惟幾 | 1887年 | 陸軍大臣 |
| 迫水久常 | 1902年 | 内閣書記官長 |
陸軍の超エリートとして、王道を歩いてきた梅津美治郎は、当時63歳になる年齢でした。
写真の通り、僧侶のような雰囲気もある梅津は、「自派閥を作る」人物ではありませんでした。
陸軍士官学校の先輩・後輩でもある梅津参謀総長と阿南陸相は、陸軍軍人をしっかり把握していました。
そのため、仮に「若手が暴走」したとしても、



梅津だ、
こんな発表は、即取り消せ!
このように、参謀次長などに「一言伝えれば終了」のはずでした。
ところが、迫水久常によると「梅津自身が方々に連絡した」と記録があります。
筆者の憶測ですが、この理由は「陸軍がすでに統制が取れない状態だった」と考えます。





参謀総長命令といえども、
勅令でない限りは、私は従わない!
かつて、1931年に満洲事変を引き起こした張本人の一人、石原莞爾は、こう言った記録があります。
超優等生が揃っていた陸軍士官学校、陸軍大学校において、



石原は、我が帝国陸軍
きっての頭脳の持ち主だ!
「No.1の頭脳」とまで言われた石原莞爾。
かなり変わった性格の持ち主だった石原は、見方によっては「傲岸不遜を絵に描いたような人物」でした。
満洲事変の当時は、帝国政府も大本営も「非拡大」の方針であり、



現地軍へ!
これ以上、戦火を広げるな!



参謀総長の命令など、
関係ない!



参謀総長からの「私文書」
だからな!



我が軍は、
一気に満洲を支配下に収めるのだ!
後に、満洲に対しては「満洲人に任せるべき」という方針に大きく転向した石原莞爾。
初期の時期には、このように「前線でやりたい放題」やっていたのが、石原が指揮した関東軍でした。



私文書って
どんな書類?
小学生・中学生・高校生の読者は、「私文書」という言葉に、あまり馴染みがないかもしれません。
公文書:政府や官庁、地方公共団体の公務員が職務上作成した文書
私文書:公文書以外の文書
「私文書」は、「一般的な文書」であり、手紙、おしらせ、学校からの連絡など様々あります。
対して、「公文書」は、政府や官庁、役所が正式に発行する書類であり、非常に限定されます。


大臣と同格、というよりも明らかに「大臣を上回る存在」だった参謀総長。
感覚としては、かつての参謀総長と軍令部総長は「総理大臣と同格」のような雰囲気でした。
その参謀総長が出す命令の書類は「公文書ではない」としても、「公文書に準ずる正式な文書」でした。



公文書は、帝国政府や
官庁の正式文書!



参謀総長の命令書は、
「正式文書」ではないから、無視!



天皇陛下の勅令、勅命ならば
従おう!
それにも関わらず、「参謀総長命令書を無視」した石原莞爾満洲軍作戦主任参謀。
石原の行動は、いかにも「行き過ぎ」でした。
いわば、帝国陸軍の「独断専行」文化を「大きく醸成した」張本人が、石原莞爾でした。
このように「将校若手が上官の命令を軽視する」文化が根強くあった、当時の帝国陸軍。



部下が上官の命令をきかぬ、など
軍ではないわ!



「上官の命令は絶対」であるのが
軍であり、我が皇軍だ!
石原莞爾とは、正反対の発想だった梅津美治郎。
梅津から見れば、「部下が上官の命令を無視」など「論外以下」でした。
ちなみに、このような「上官の命令無視」の風土は、帝国海軍にはほとんどありませんでした。
満洲事変勃発から14年が経過していた1945年当時、



参謀総長の
命令と言えども、関係ない!
おそらく、こんな雰囲気であり、



誰が、なんと言おうと、
この発表は強行する!
若手陸軍将校たちは、「なんとしても徹底抗戦を発表」するつもりだったでしょう。
この中、この「徹底抗戦発表取り消し」作戦においては、



ここで、私が参謀次長や
報道部長などの幹部に「やめろ」と言ったところで、



果たして、下の連中が
従うだろうか・・・



いや、「上官の命令を平然と無視」する
バカどもがいるだろう・・・



これは、なんとしても止めなければ、
この私が徹底的にやらねば。
おそらく、このように考えた梅津参謀総長。
その結果、方々に、場合によっては末端の将校にまで、自ら電話をかけて、



梅津だ、
必ず、この発表は取り消せ!



これは、天皇陛下の命令だ!
つまり勅命だ!



この命令に逆らったものは反乱軍とみなし、
この梅津自ら軍を指揮し、反乱軍を鎮圧する!



はっ・・・



梅津総長に、
ここまで言われては・・・
おそらく、梅津は「このくらいのことを言った」と筆者は推測します。
これは筆者の憶測であり、記録はありません。
当時の帝国陸軍の文化と雰囲気、そして当時の緊迫した状況から、推測したことです。
とにかく、「信じられない大本営発表」を寸前に止めることに成功した迫水久常。



わたしは、一度に
肩の荷がおりる感じだった。



後で分かったことだが、この発表文は、
大本営の報道部が勝手に作り上げ、



陸軍次官と参謀次長の決裁を
もらっていた。



主役はもちろん、大本営報道部の
若い将校たちである。
とにかく、超ギリギリ、というか「際どい超寸前」で「凄まじい発表」を止めることが出来ました。



もし、この発表が誤って、公にされていたら、
軍を中心として大きな混乱が起こり、



終戦の工作が、あのように円滑に
運んだかどうか分からない。



私は、内報してくれた朝日新聞者の
柴田記者に深く感謝した。
とにかく、極めて異常な大混乱の中、大日本帝国は降伏へ向かっていました。
時は、1945年8月13日。
もうすぐ、まもなく、大日本帝国は「初めての敗戦と降伏」を受け入れようとしていました。
次回は上記リンクです。


