「もはやどうしようもなし」の咲子と巌〜言葉が全く通じない二人・薩摩の大山巌と会津の山川咲子の対面・会津人にとって「悪魔」の薩摩人〜|山川捨松44・人物像・エピソード

前回は「「咲子が大山に会う」ことを西郷に伝える浩〜「政府高官・陸軍歩兵大佐」の浩・軍における佐官の職位と権限・「15歳差」の意味〜」の話でした。

山川咲子(捨松)(Wikipedia)
目次

薩摩の大山巌と会津の山川咲子の対面:会津人にとって「悪魔」の薩摩人

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左上から時計回りに、山川咲子、大山巌、西郷従道、山川浩(国立国会図書館、Wikipedia)
山川咲子

いいわ・・・
大山卿に一度会ってみましょう・・・

山川浩

そうか・・・
咲子自身が、大山卿に会って考えるか・・・

15歳下の「目に入れても痛くない」ほど可愛いがり続けた咲子。

その咲子の結婚相手を探していた兄・浩は、「自身直属の最高上司」大山巌陸軍卿を紹介されました。

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会津戦争直後の会津城(Wikipedia)

幕末、薩摩と長州に徹底的に潰された会津人にとっては、「悪魔」のような存在だった薩摩人でした。

結婚相手として、ある意味では「最悪の人物」であり、見方を変えれば「最高の人物」でした。

山川浩

それでは、まずは
仲介者の西郷参議に・・・

そして、紹介者であったのは、西郷隆盛の弟にして当時は農商務卿だった西郷従道でした。

西郷従道

咲子さんが
巌に会ってくれるか!

西郷従道

あとは、二人の
間次第ごわす・・・

この後、どのように咲子と大山巌の面談、というかデートがセッティングされたかは不明です。

おそらく、双方の間で様々な人が仲介に入り、山川咲子と大山巌は初対面に至りました。

現代においても「誰かが間に入って、初対面の二人が会う」際には、必ず仲介者が同席します。

そのため、山川咲子と大山巌が初めて会う際には、「最初は誰かが同席した」と考えます。

大山巌

大山巌
ごわす。

山川咲子

山川
咲子です。

ここで、当時の日本において「極めて稀少な存在」だった、留学経験豊富な男女二人が会いました。

山川捨松:ヴァッサー大学在学中(Wikipedia)

咲子は、1882年にヴァッサー大学を学年3位の成績で卒業し、”magna cum laude”を受賞し卒業しました。

新教育紀行
岩倉使節団(Wikipedia)

1871年の岩倉使節団に同行し、そのまま米国留学に移行した山川咲子は、当時11歳でした。

とにかく猛烈に学び、11年も米国にいた若き咲子は、日本語より英語の方が達者になっていました。

咲子の米国留学に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

「もはやどうしようもなし」の咲子と巌:言葉が全く通じない二人

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左から山川咲子、大山巌、米国、フランスのイメージ(国立国会図書館、Wikipedia、新教育紀行)
大山巌

・・・・・

山川咲子

・・・・・

大山巌にとっては、「夢にまで見た」山川咲子との初対面でしたが、やや無言となってしまいました。

いわば「会ってあげた」立場の山川咲子としても、自ら何か発言する状況にもありませんでした。

名前生年1882年時点の状況
西郷吉之助(隆盛)1828戦死(1877,西南戦争)
大山巌1842参議・陸軍卿
西郷信吾(従道)1843参議・農商務卿
山川浩1845歩兵陸軍大佐
山川咲子1860米国留学後、準備中
山川兄妹と大山巌及び親戚

現代では信じられないほど「男性優位」だった当時において、結婚もまた「男性優位」でした。

1842年生まれで「歴戦の士」を超えて、「超歴戦の士」であった大山巌。

大山巌

〜ごわすが、〜ばってん
〜〜〜〜〜〜

大山巌は思い切って、事前に考えていたことを一生懸命語りました。

ところが、

山川咲子

???????

山川咲子

何を言っているのか、
全然分からない・・・

「藩が国家」のような幕藩体制の中、青年期を迎えた大山巌は、思い切り薩摩弁で語りました。

当時、政府の中枢で懸命に働いていた大山は、「東京での話し方」も慣れつつあったと考えます。

その一方で、「薩摩弁で捲し立てても、業務に全く支障がなかった」のが当時の明治政府でした。

なぜならば、同じ「薩摩出身者が大量に周囲にいた」からでした。

そのため、おそらく日常業務においても、思い切り薩摩弁で語っていたであろう大山巌。

大山巌

おいどん(私)の
言っていることば(は)、分からんごわすか・・・

当惑しきった表情の山川咲子に対して、大山は絶望的な気持ちになったでしょう。

山川咲子

〜〜で
〜〜〜ですか?

仕方ないので、山川咲子が話し始めましたが、

大山巌

???????

今度は、大山巌の方が、山川咲子の言葉が全く理解できない状況でした。

新教育紀行
江戸=東京が中心・重心の日本列島(新教育紀行)

明治となった1868年から、14年が経過していましたが、北国だった会津出身の山川咲子。

対して、南国、というよりも、当時は「南の端の国」だった薩摩出身の大山巌。

双方が極めて強い方言を持つ藩で育ったため、「お互い何を言っているか」が殆ど不明でした。

大山巌

困った
ごわす・・・

日本人同士にもかかわらず、もはや「通訳が必要」な状況となりました。

その中、22歳年上であった大山巌は大いに困ってしまいました。

山川咲子

薩摩の人と話す、とは
全然思わなかったけど・・・

山川咲子

薩摩の言葉って、
全然会津の言葉と違う・・・

山川咲子

言葉が通じないのでは、
どうしようもないわ・・・

「もはやどうしようもなし」と感じた咲子の表情に対し、

大山巌

どうすれば
よかごわすか・・・

大山巌をもまた、「もはやどうしようもなし」でした。

お互いの人間性は、「会った感じ」である程度は把握できます。

ところが、「言葉が通じない」のでは、当時も今も人間関係は成り立たない状況です。

大山巌

どうすれば・・・
どうすれば・・・

「もはやこれまで」の中、人生で初めて狼狽続けた大山巌でした。

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