前回は「「米英が条件緩和した」と感じた東郷外相〜「ポツダム宣言拒否は重大なる結果引き起こす」・日本経済への配慮・手記の正当性〜」の話でした。
トルーマン大統領の「受諾させる意図」:「海外放送が先」の意図

1945年7月26日、海外放送によってポツダム宣言を知った日本政府。
本来ならば、「降伏勧告」は、当事者である日本政府が最初に知るべき情報でした。
ところが、
海外放送Japanへポツダム宣言を
通告し、その内容は・・・
日本政府が知るよりも先に、海外放送で放送されてしまいました。





外務省のラジオ室は、七月二十七日の朝早く
海外からの放送によって・・・



ポツダム宣言を
キャッチした。
この時期の日本政府の動向を、迫水久常は、「大日本帝国最後の四か月」において明らかにしています。


当時、内閣書記官長(内閣官房長官)の要職にいた迫水久常は、「全てを知る人物の一人」でした。
外務省は「ラジオ室」という担当部署を設置し、海外放送を受信していました。
米国との直接交渉を避けつつ、ソ連を頼りながらも、連合国の意図を知ろうと努力していたのでした。
この「海外放送」とは、国名を明らかにしていませんが、筆者は「米国内放送」と考えます。
いわば、「日本政府への正式通告前」に、「海外放送されてしまった」日本政府。
全く「メンツを潰された形」となりましたが、これに関しては、迫水はあまり触れていません。





Japanが降伏しないから、
ポツダム宣言を通告するが・・・



先に、我がUnited States(米国)で
放送してしまおう・・・



そうすれば、Japanの政府は
受諾せざるを得ないだろう・・・
この「海外放送が先んじた」のは、トルーマン大統領の「わざとやった」と考えます。
先に世界中に公開し、「日本政府が受諾せざるを得ない」状況に陥らせようとした、と考えます。
ただし、この筆者の予想は記録等が現在見つかってなく、あくまで「推測」です。
「侍従長の回想」が明らかにする昭和:海軍出身の藤田尚徳侍従長


日本政府の大幹部たちは、ポツダム宣言に対して、大至急真剣なる検討を開始しました。
これは「当然のこと」ですが、当事者にとっては、大変な状況でした。
その中も、米軍による空襲が続き、「いつ上から爆弾が降ってくるか不明」の状況でした。
「大日本帝国最後の四か月」では、東郷外相の回想録を引用後、広島への原爆に飛びます。
| 日付 | 出来事 |
| 7月26日 | 連合国、日本政府へポツダム宣言通告 |
| 7月28日 | 日本政府、ポツダム宣言を「黙殺」と発表 |
| 8月6日 | 広島へ原爆投下 |
| 8月8日 | ソ連、日ソ不可侵条約の一方的破棄を日本へ通告 |
| 8月9日 | 長崎へ原爆投下 |
| ソ連軍、日本へ侵攻開始 | |
| 8月14日 | 日本政府、連合国へポツダム宣言正式受諾通知 |
| 8月15日 | 昭和天皇、玉音放送で国民に降伏告知 |
| 9月2日 | ミズーリ号で連合国、日本の間で降伏調印 |
1945年7月28日、日本政府はポツダム宣言に対し、「黙殺」と公表しました。
この点は、「どういう経緯だったか」を、現代の日本人は知る必要があります。


そこで、藤田尚徳侍従長の「侍従長の回想」を読んでみましょう。
当時、昭和天皇の最側近の一人であった藤田尚徳侍従長。


海軍出身の藤田尚徳侍従長は、常に昭和天皇のそばにいる立場でした。
鈴木首相を含む、あらゆる人物が昭和天皇に何かを上奏するときは、常に傍に近侍していた藤田。


実は、鈴木貫太郎首相もまた、「かつて侍従長を務めた」人物でした。
この点でも、昭和天皇との接点が極めて濃厚だったのが鈴木貫太郎首相でした。
| 海兵卒業期 | 名前 | 生年 | 役職 |
| 14期 | 鈴木貫太郎 | 1868年 | 内閣総理大臣 |
| 29期 | 米内光政 | 1880年 | 海軍大臣 |
| 29期 | 藤田尚徳 | 1880年 | 侍従長 |
| 32期 | 嶋田繁太郎 | 1883年 | 前・海軍大臣兼軍令部総長 |
| 32期 | 山本五十六 | 1884年 | 戦死(連合艦隊司令長官) |
| 37期 | 小沢治三郎 | 1886年 | 連合艦隊司令長官(海軍総司令長官) |
上の表の通り、当時、海軍は陸軍よりも「昭和天皇の近くにいた」立場でした。
1945年7月26日は、すでに、山本五十六連合艦隊司令長官が戦死して、2年以上が経過していました。



ポツダム宣言の訳文は、政府から木戸内府を経て、
陛下のお手元にも届けられた。
藤田侍従長は、東郷外相とは別ルートで昭和天皇にポツダム宣言が届けられた事実を語っています。
その人物を、「木戸内府」と呼んでいますが、「内府」とは内大臣を指します。


木戸内大臣とは、木戸幸一内大臣です。
| 名前 | 生年 | 役職 |
| 鈴木貫太郎 | 1868年 | 内閣総理大臣 |
| 藤田尚徳 | 1880年 | 侍従長 |
| 木戸幸一 | 1889年 | 内大臣 |
| 昭和天皇 | 1901年 | 天皇・大元帥 |
そして、「木戸」という、日本人には少ない苗字から「木戸幸一とは何者か」を推測してみましょう。


木戸幸一は、明治維新の元勲・木戸孝允の大甥に当たります。
木戸孝允の妹の孫が、木戸幸一です。
戦時中、様々な資料に頻繁に登場する木戸幸一内大臣は、天皇の「最側近」でありました。
藤田侍従長とは、また別の形で「常に昭和天皇に進言する立場」であった木戸内府。
次回は、木戸幸一内大臣の昭和天皇への上奏を見てみましょう。

