無職の「天皇の祖父」による「究極の命令」〜中学3年生だった天皇睦仁による「賊・慶喜の殺害命令」・関白太政大臣豊臣秀吉〜|討幕の密勅5・歴史の真実5

前回は「「討幕の密勅」出した「暴発公家」中山忠能〜「明治天皇の祖父」で復活・詔と勅の違い・詔よりも範囲が広い勅〜」の話でした。

目次

中学3年生だった天皇睦仁による「賊・慶喜の殺害命令」

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薩摩藩に下された「討幕の密勅」(人物探訪日本の歴史 幕末の英傑 暁教育図書)
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長州藩に下された「討幕の密勅」(人物探訪日本の歴史 幕末の英傑 暁教育図書)

幕末、日本の歴史を大きく動かした「たった二枚の紙切れ」だった「討幕の密勅」という文書。

この「たった二枚の紙切れ」で歴史が動いたのは、世界史で見ても極めて異例でした。

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明治天皇(国立国会図書館)

この「討幕の密勅」は、明治天皇である睦仁からの命令でした。

討幕の密勅:原文(Wikipedia)

詔す。
源慶喜、累世るゐせいり、闔族かふぞくきゃうたのみ、みだりに忠良を賊害ぞくがいし、しばしば王命を棄絶し、遂には先帝の詔をめておそれず、万民を溝壑こうがくおとし顧みず、罪悪の至る所、神州まさ傾覆けいふくせんとす。

朕、今、民の父母たり、この賊にして討たずむば、何を以てか、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讐しんしうに報いむや。これ、朕の憂憤いうふんの在る所、諒闇りゃうあんを顧みざるは、ばんむべからざればなり

なんじ、宜しく朕の心を体して、賊臣慶喜を殄戮てんりくし、以て速やかに回天の偉勲を奏し、而して、生霊せいれいを山岳の安きにくべし。此れ朕の願なれば、敢へてまどおこたることかれ。

討幕の密勅:現代文(Wikipedia)

詔を下す。

源(徳川)慶喜は、歴代長年幕府の権威を笠に着て、一族の兵力が強大なことをたよりにして、みだりに忠実で善良な人々を殺傷し、天皇の命令を無視してきた。そしてついには、先帝(孝明天皇)が下した詔勅を曲解して恐縮することもなく、人民を苦境に陥れて顧みることもない。この罪悪が極まれば、今にも日本は転覆してしまう(滅んでしまう)であろう。

私(明治天皇)は今や、人民の父母である。この賊臣を排斥しなければ、いかにして、上に向かっては先帝の霊に謝罪し、下に向かっては人民の深いうらみに報いることが出来るだろうか。これこそが、私の憂い、憤る理由である。本来であれば、先帝の喪に服して慎むべきところだが、この憂い、憤りが止むことはない。

お前たち臣下は、私の意図するところをよく理解して、賊臣である慶喜を殺害し、時勢を一転させる大きな手柄をあげ、人民の平穏を取り戻せ。これこそが私の願いであるから、少しも迷い怠ることなくこの詔を実行せよ。

明治天皇

お前たち臣下は、朕(私)の
意図するところをよく理解して・・・

明治天皇

賊臣である慶喜を殺害し、時勢を一転させる
大きな手柄をあげ、人民の平穏を取り戻せ!

日本の歴史上、「朕」と自分を呼ぶことが出来るのは「現職の天皇」ただ一人です。

源(徳川)慶喜に対して激怒して、「賊・慶喜を殺せ!と命令していた」のが当時の天皇・睦仁でした。

後に明治天皇と呼ばれる、当時の現職天皇・睦仁。

幕末は「まだ明治ではない」ので、「天皇・睦仁」のままでした。

1852年11月3日に生まれ、この「討幕の密勅」が出された1867年10月13日は「もうすぐ15歳」だった天皇・睦仁。

現代で考えると「中学3年生の少年」でした。

明治天皇

賊臣である慶喜を殺害し、
人民の平穏を取り戻せ!

時代が違うとはいえ「中学3年生の少年」にしては、随分と思い切った命令でした。

無職の「天皇の祖父」による「天皇の命令」:関白太政大臣・豊臣秀吉

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正二位 中山忠能(Wikipedia)
中山忠能

天皇・睦仁の代理で
この中山忠能が文書を出します!

ところが、この文書の発信者は天皇・睦仁ではなく、正二位であった中山忠能ら三人でした。

これほど重大な「現職の天皇の命令」を「出す資格がある人物」は極めて限定されます。

本来ならば、天皇の輔弼(ほひつ)役である、摂政・関白・太政大臣でなければならないはずでした。

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天下人 羽柴秀吉(Wikipedia)
羽柴秀吉

この羽柴秀吉は
関白になったのだ!

羽柴秀吉

だから、天皇に代わって、
皆に命令出来るのだ!

日本の歴史上「最も実力勝負」だった戦国時代においても、秀吉は「関白」就任によって権力を得ました。

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関白・太政大臣 豊臣秀吉(Wikipedia)
豊臣秀吉

さらに「豊臣」の姓を朝廷から賜り、
豊臣秀吉となったのだ!

豊臣秀吉

そして、太政大臣に
就任したのだ!

関白太政大臣・豊臣秀吉は、当時既に圧倒的軍事力と経済力を有していました。

豊臣家以外の全ての大名が束になって、豊臣家と戦っても「豊臣家は勝てる」圧倒的軍事力を持っていました。

豊臣秀吉

皆のもの、この関白太政大臣である
豊臣秀吉の言うことを聞け!

その秀吉ですら、「関白太政大臣・豊臣秀吉」として権力を確立しました。

この歴史の流れを考えると、「討幕の密勅」は太政大臣・摂政・関白級が出すべき書類でした。

中山忠能

私は摂政でも、関白でも、
太政大臣でもありませんが・・・

中山忠能

天皇・睦仁の
祖父です!

ところが、中山忠能は摂政でも、関白でも太政大臣でもない単なる「正二位」の「睦仁天皇の祖父」でした。

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摂政(前・関白)二条斉敬(Wikipedia)
二条斉敬

現職の摂政は
この二条斉敬ですぞ!

二条斉敬

私は、孝明天皇を
輔弼した時は関白でした!

実は、この時「現職摂政・前関白」であった二条斉敬がいました。

二条斉敬は、孝明天皇を補佐し続けた人物で、さらに「徳川慶喜の従兄弟」でした。

二条斉敬

私が、従兄弟・慶喜に
不利な命令を出すはずがなかろう!

中山忠能もいくつかの職に就いていましたが、摂政・関白・太政大臣と比較すれば「無職」でした。

この「不思議すぎる世界」の中、「天皇の祖父」が「世を転換させる大命令」を出しました。

中山忠能

孫の天皇・睦仁の代理で、
薩摩・島津と長州・毛利に命ずる!

中山忠能

賊臣である慶喜を殺害し、
人民の平穏を取り戻せ!

現摂政・前関白の二条斉敬を無視して、無職の中山忠能が「天皇の代理」で出した「賊・慶喜殺害命令」。

朝廷の機構を考えると、どう考えても「理解に苦しむ」形式で「天皇の命令=勅」が発行されたの書面。

それが「討幕の密勅」という謎の書類だったのでした。

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