前回は「無職の「天皇の祖父」による「究極の命令」〜中学3年生だった天皇睦仁による「賊・慶喜の殺害命令」・関白太政大臣豊臣秀吉〜」の話でした。
謎の戦争指揮権生んだ「討幕の密勅」:「鳥羽・伏見」と「関ヶ原」


歴史を変えた薩長両藩へ下賜された「討幕の密勅」。
薩摩への「討幕の密勅」が下賜された1867年10月13日の同日に、徳川慶喜の大政奉還がありました。
そして、その後、各所でバタバタと様々な動きがあり、1868年1月3日の鳥羽・伏見の戦いとなります。
この「鳥羽・伏見」は、江戸時代から明治時代の「天下分け目の戦い」となりました。

西郷隆盛幕軍をぶっ潰す
ごわす!



合戦は
西郷に任せよう・・・



いよいよ、
ですな・・・
この時、薩長軍5,000名に対して、幕軍15,000名が戦い、薩長軍は「圧勝」しました。
この「圧勝した軍隊」を率いたのが、薩摩の西郷隆盛たちでした。
ところが、西郷たちは「実権を持たず、権限を委任される」立場でした。


「鳥羽・伏見」の268年前、徳川幕府誕生の契機となった関ヶ原の戦いとは、随分違う構図でした。
「関ヶ原」では、「軍隊・兵の指揮権を直接握る」諸大名自ら出陣しました。





進めっ!
徳川を撃破するのだ!



三成めを
叩き潰すのだ!
「関ヶ原」では、諸大名たちが自ら乗り込んで、大決戦を行いました。
「関ヶ原」と比較すると、「鳥羽・伏見」は「双方総大将不在」のままでした。





西郷は
大嫌いだが・・・



これ(討幕の密勅)により、
天子様のご意向を最優先する・・・



西郷に我が薩摩藩の
軍隊指揮権を与えよう・・・
「鳥羽・伏見」では、薩長軍側の薩摩藩主(事実上)・島津久光は遠い薩摩にいました。
同様に、長州藩主・毛利敬親もまた、長州にいました。





・・・・・
そして、「鳥羽・伏見」では、幕軍総大将・徳川慶喜は出陣しませんでした。
つまり、両陣営共に「総大将不在」のまま、代理戦争が行われたのが「鳥羽・伏見」でした。
このような、「不思議な状況」のまま、「鳥羽・伏見」は勃発し、そのまま討幕に至ったのでした。
背後で暗躍していた岩倉具視:「詔書」か「勅書」か不明の書類


筆者は、歴史に関する書籍を多数所有していますが、「討幕の密勅」の資料は極めて乏しいです。
「討幕の密勅」は、上のような薩摩への「討幕の密勅」の別の資料もあります。


今回の話の冒頭に掲げた「討幕の密勅」と比較してみましょう。
これらの資料は、筆者は「切り取り加工」などは一切してなく、「資料そのまま」です、。
「色味の違い」は、撮影やスキャンの状況・設定によるので、考えないこととします。
ここでは、「文面の違い」を主体に考えます。、
上の「薩摩藩に下された 『討幕の密勅」AとBを比較すると、「AはBの一部」であることが分かります。
Bでは、冒頭に「詔書」と大きく記載され、宛名名が記載されています。
つまり、この部分は「討幕の密勅」が折り込まれた際に、表面に出る部分です。
ここで「詔書」という言葉が気になります。
詔:極めて重大な天皇による命令・指示
勅:詔より、やや低位の天皇による命令・指示
「討幕の密勅」と「勅」であるのに、実は「詔」である謎の文書でした。
本来ならば、「討幕の密詔」であった、これらの書類。
受け手の薩摩藩主(事実上)・島津久光、長州藩主・毛利敬親の立場からすれば、



「密勅」と言うが、
これは「詔書」ではないか・・・
「詔書を受ける」ことの重大性が、事態に大きな影響を与えたと思われます。
そもそも、「明治天皇の代理」として「超重大な命令」を下せる権限は限られた存在でした。
朝廷の公家がポンポン「超重大な命令」を出しては、朝廷はバラバラになってしまいます。





現職の摂政は
この二条斉敬ですぞ!



私が、従兄弟・慶喜に
不利な命令を出すはずがなかろう!
この時、現職の摂政で前関白であった二条斉敬の名前は、一切出てきません。





孫である天皇・睦仁の代理で
この中山忠能が文書を出します!
「天皇の祖父」の中山忠能が「謎の権限」で発行したのが、「討幕の密勅」でした。
「詔」なのか「勅」なのか不明瞭であり、発行元が「発行権限を持たない人物」であった「討幕の密勅」。
「詔」でも「勅」でも、どちらにしても、現職の天皇の最重要書類であったのが「詔と勅」でした。
これらが「真性の天皇発行の最重要書類」であるはずは、ありません。





ふっふっふ・・・
そして、この謎の「討幕の密勅」の背景で、当時暗躍していたのが岩倉具視でした。

