前回は「薩摩に裏切られ徹底的に潰された会津の悲憤〜「大山」縁談潰す決意の浩・「男性超優位」だった明治の家庭像・名家と廃藩置県で生まれた華族〜」の話でした。

「最悪の人物」からの咲子への求婚

山川浩一生懸命メリケン(米国)で
勉強した咲子に・・・



咲子に相応しき
結婚相手を探すのだ!
15歳年下の「可愛い妹」のため、「結婚相手探し」に奔走していた山川浩。
A.もともとそれなりの名家出身で将来有望なエリート
B.留学した咲子の生き方や考え方を尊重する理解ある人物
C.薩摩と長州は絶対に不可



A,B,C全てを
満たすのは不可能だ・・・



まずは絶対条件である
Cを満たす人物を・・・



そして、立派な人間性であり、
咲子と相性が良い人が良い・・・
こう考えていた浩に対して、「咲子との結婚」に対して「超真剣な超大物」が登場しました。





ぜひ、山川咲子さんと
結婚したいごわす!
参議・陸軍卿 大山巌でした。
戊辰戦争の頃から、薩摩の中心人物であった大山巌は、「薩摩の超主流派」であり続けました。



お、大山巌
陸軍卿、だと?!!!
「心臓が止まる」ほどの衝撃を受けた山川浩。
実は、この「大山巌と山川捨松の縁談」には、西郷隆盛や大山巌と親しかった吉井友実が介入しています。
吉井も幕末の風雲を駆け抜けた重要人物ですが、ここでは流れをシンプルにして「吉井抜き」で話を進めます。
本来「最高の結婚相手」の参議+陸軍卿:西郷隆盛の従兄弟・大山巌


そして、大山巌は、あの西郷隆盛の従兄弟でした。
現代、「聖人のような存在」である西郷隆盛。
そして、日本史において「聖人」的存在となっている西郷隆盛。
それは、西郷のある意味で「悲劇的な人生」が肥大化した結果でもありました。
一般的には「聖人君子」西郷であっても、会津藩や山川浩にとっては、



西郷は、禁門の変以降、突然
我らを裏切った・・・



西郷め・・・
あやつは絶対に許せん・・・
実際、幕末の薩摩は「魔術的な政治力」によって、幕府を潰した張本人でした。
そして、その「魔術的薩摩」の中心人物であったのが西郷隆盛でした。
幕末の薩摩に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
よりによって、「薩摩の中心人物」であり、「西郷の従兄弟」であった大山巌。



大山巌・陸軍卿は
立派な人物だが・・・



最悪だ・・・
あの薩摩の・・・西郷の・・・
現代、参議が廃止となりましたが、参議は太政大臣に次ぐ「天皇の配下・家臣」の中で極官でした。
さらに、当時は、「国家国民を守る」軍人への尊敬の観念が強い時代でした。
当時の「参議+陸軍卿」は現代の防衛大臣程度ではなく、感覚的には「現代の総理大臣以上の存在」と考えます。
つまり、現代の日本人の感覚では、理解できないほどの「雲の上の存在」であったのが大山巌でした。
「総理大臣以上の存在」であり、「あの西郷の従兄弟」である大山巌からの「咲子への求婚」。
現代的感覚では、「最高レベルの相手」でした。
一般的に、一点気になるのは大山が「再婚であること」と年齢差でした。
幕末から戦い続け、「参議+陸軍卿」ならば、「おじさん」である可能性が高いです。
若々しい、22歳の咲子とは到底釣り合いません。



おいどんは、
1842年生まれごわす!
1842年生まれの大山巌は、1860年生まれの咲子の18歳年上で、当時40歳になる年齢でした。
「現代の40歳」と「当時の40歳」では感覚が異なりますが、「ギリギリおじさんではない」年齢とも言えます。
咲子が、普通の華族(元大名相当)などの子女であれば、



喜んで、我が妹(娘)を
大山参議・陸軍卿と結婚させましょう!
「我が家の名誉」とばかり、結婚する女性の周囲の家族は「大盛り上がり」するはずでした。
むしろ、「二回目」であり「おじさん」であっても、相手が大山巌であれば、



是非とも、我が妹(娘)を
大山参議・陸軍卿と結婚させて下さい!
このような勢いになる可能性が高いほど、「圧倒的な有力者」でした。
ところが、山川家にとっては「最悪の薩摩」でした。
さらに、よりによって「西郷の従兄弟」は「単なる薩摩」ではなく、「薩摩ど真ん中」でした。
もはや、「最悪の薩摩」を超えて「超最悪の薩摩ど真ん中」であった大山巌。



こんな話、絶対に、
潰さねば・・・
「大山巌+山川咲子」の結婚を、兄・浩が認めては、



この話を認めたら、
会津の友たちから半殺しにされてしまう・・・
同郷・会津の友人達から、「半殺し」または「袋叩き」にされるのは目に見えていました。
浩の「己の生き様」防衛と「縁談破壊」への新たな決意


この「共に幕末維新を生き抜いてきた」同郷・会津人からの集中砲火だけでも、浩は絶対に避けたいです。



こんな縁談を
認めては・・・



私の存在は会津人達から、
抹殺されてしまう・・・
これだけでも「絶対に避けなければならない」事態でしたが、さらに「最悪の事態」が予見されました。
それは、大山陸軍卿が「浩の直属の最高上司」であったことでした。
明治時代は、現代よりも「コネの力」が遥かに強い時代でした。
有力者の「一言」で「大きく世界が動いた」のが、明治時代の日本でした。
仮に、浩が大山陸軍卿と咲子の結婚を「認めた」ならば、



おいおい・・・
山川の奴、己の立身出世のために・・・



仇敵と妹を
結婚させた、らしいぜ・・・



そこまでして、
出世したいのか?
周囲の陸軍士官から、この「超白い目」で見られることは必至でした。
この「大山+咲子」の結婚は、山川浩の人生に致命的打撃を与えることは必定でした。
なんと言っても、「偉大なる過去=会津」と「懸命に仕事する現在=陸軍」の両方を失うからです。
このことを考えるだけでも、



私は、もはや終わりだ・・・
誰からも相手されなくなる・・・
仮に「大山のバック」があるので「出世する」としても、生涯「後ろ指をさされ続ける」人生となります。


若い頃は「山川大蔵」と名乗っていた浩は、会津の中核であり続けました。
上の写真の通り、爽やかで頭脳明晰な雰囲気が伝わってくる浩(大蔵)。
若い頃から一貫して「己の信念を貫く」ことをモットーとしてきた浩にとって、



これを認めたら、
私は終わる・・・
そもそも、結婚する「張本人である」咲子が「薩摩の大山」に対して、OKするはずがありません。



私はどうなっても
良いが・・・



咲子に、「相手が薩摩」など
絶対に言えぬ・・・
浩は己の人生、そして生命を賭けても「大山と咲子の結婚」を潰す決意を新たにした浩。



我が人生と生命を賭けても、
絶対に潰すのだ!



だが、どのように
「潰す」のだ・・・
この頃、山川浩は、「完全に想定外の事態」に懊悩し続けていました。
その浩の状況を、横から静かに見ていた人物がいました。


その人物とは、参議・農商務卿だった西郷従道。


