前回は「「「この世の超絶地獄」会津戦争〜「焼玉押え」と身を挺して戦った女性たち・新官軍オールスターの到来・「私塾設立」の相談受けた山川浩・蘇る会津戦争の凄惨な記憶〜」の話でした。

白虎隊の悲劇「16歳から17歳の自刃」

15歳年下の可愛い妹・咲子(捨松)から、「山川塾設立構想」に対する意見を求められた兄・浩。
今回は、兄・浩の視点から見た物語なので、「捨松」ではなく「咲子」で通します。
山川浩会津戦争・・・
我が妻も死んでしまった・・・
咲子は、明治4年(1871年)に留学に向かい、11年後の1882年に帰国していました。
いわば、「咲子の人生相談」を受けた浩の頭には、過去の様々な歴史が一気に甦って来ました。


旧暦1868年1月3日に戊辰戦争が勃発し、鳥羽・伏見の戦いがおきました。
その後、将軍慶喜の新政府軍への恭順を経て、



朝敵になるのは絶対に
嫌なので、恭順します・・・
会津藩は1968年4月20日から本拠地・会津で新官軍を迎え撃ちました。



我ら会津藩は
最後まで戦う!
咲子を前にして、浩は山川家と会津藩の歴史に思いを馳せていました。



まだ9歳(数え年)だった
咲子も、弾薬運びを手伝った・・・
9歳は「数え年」であり、現代の考え方では、8歳だった咲子。
現代の小学校3年生の年に、咲子は「戦場にいた」のでした。
いくら「武士の時代」とは言え、「もはや想像を絶した世界」となっていた会津城及び会津の戦場。
会津戦争直前、会津藩では大規模な軍隊再編成を実施しました。
| 隊名 | 年齢 | 部隊数 |
| 白虎隊 | 16〜17歳 | 6部隊 |
| 朱雀隊 | 18〜35歳 | 12部隊 |
| 青龍隊 | 36〜49歳 | 9部隊 |
| 玄武隊 | 50歳以上 | 4部隊 |
白虎・朱雀・青龍・玄武の名称は、「四神」の名前から取られました。
ここで最も戦力となるのは、壮年の朱雀隊でした。
そして、白虎隊は「予備隊」の扱いでしたが、もはや戦争となっては、出撃せざるを得ませんでした。
まだ、武術稽古も途中であった白虎隊の若き隊員たちは勇んで出撃しました。
そして、新官軍に押され続けるなか、飯盛山にいた時、



あっ、
会津城から火が!
会津城から大量の煙が立ち上るのを見た白虎隊員たちは、



もはや
これまで、だな・・・



みんなで
一緒に自刃しよう!



そうだ!
会津の武士として死ぬのだ!


こうして19人(15人説あり)の白虎隊たちは、潔く自刃しました。


現代の高校2年生頃の「若い」というより、「若すぎる」命が自らの手で絶たれました。
「遺体の路上放置」を厳命した新官軍


そして、会津藩は降伏し、領内には多数の戦死者が路上にある状況となりました。
ここで、新官軍は「信じられない命令」を発令しました。



お前たち会津人は
賊なのだ!



賊の戦死者など、路上に
放っておけば良いのだ!



埋葬しては
決してならん!



よいか!
分かったか!
路上で斃れていた会津藩の戦死者たちを「埋葬してはならない」という、「常軌を逸した」厳命を出した新官軍。
中には、白虎隊など子どもの死体を埋葬した人物がいましたが、



お前!
埋葬してはならん、と言っただろう!



我が官軍の命令を
破ったのだから、逮捕だ!
官軍によって拘束されて、牢獄に入れられた人物もいました。
会津藩の路上では2ヶ月ほど(諸説あり)、遺体が放置されて風雨に晒される、事態となりました。
路上において死体・遺体が放置され、あちこちで腐乱するという信じられない事態となりました。
これは教科書には「記載されていない」事項であり、とても教科書には「記載できない」事実です。



くっ・・・
会津戦争後の惨状と言ったら・・・



美しき我が故郷・会津の地が
悲惨を極めた状態に・・・



この世とは到底思えぬ
信じられぬ光景を見た・・・



薩長を軸とする新官軍の連中は、
「超えてはならぬ一線」を超えた・・・
この所業は「超えてはならぬ一線」ではなく、「超えては鬼畜となる一線」でした。
その「一線」を平然と超えた、会津の新官軍。
新官軍の一部の本質はこのようなものであり、いわば「無法者の集団」でした。
会津に執拗なまでに罰を加えた新政府:会津から僻地・斗南への換地





我が会津藩に対して、
薩長は総力を上げて攻撃してきた・・・
1968年は慶長4年であり、同時に明治維新によって「明治元年」になる年でした。


熾烈な籠城戦となり、若き頃の山川浩は、山川大蔵という名でした。
そして、若く、優れた山川大蔵は、会津藩家老・防衛総督として籠城戦を指揮しました。



もはや・・・
もはや降伏か・・・



もはや・・・
これまで、かと・・・
もはや、誰が見ても会津藩は敗北するしかなく、藩主・松平容保は涙を呑んで降伏しました。



くっ・・・
我が会津が・・・





会津戦争後、
我が会津藩は斗南に追いやられ・・・



まるで、明治新政府から
嫌がらせのような扱いを受けた・・・
明治新政府は、会津藩降伏の後、会津を一時的に東北の端である斗南藩に追いやりました。



会津とは比較にならぬ
痩せ地で、皆が懸命に生きた・・・
戦争が終わって降伏したら「仲直り」が、本来の姿でした。


ところが、薩長にとっては、京都守護職の役職だった会津藩は「憎むべき対象」でした。
会津藩主・松平容保及び会津藩は、京都における「ザ・徳川」として薩長と死闘を繰り広げたからです。
その「京都時代の恨み」をまとめて、会津に対して「仕返し続けた」のが明治新政府でした。
若い頃から、松平容保の側近であり続けた山川浩は、「会津と薩長の死闘」の全てを知っていました。



確かに我が会津は、
新選組と共に薩長と戦った・・・



だが、当時は、暗殺を
多数続けた薩長・・・



薩長こそが
「反社会集団」だったのだ・・・
当時「日本政府」であった徳川幕府の命令で、「治安維持」に懸命にあたっていた会津藩。
会津藩の行為は完全に「正当性があるもの」であり、薩長こそが単なる「犯罪者集団」だったのでした。





江戸を混乱の渦に
叩き込むのだ!
そもそも、「鳥羽・伏見」のきっかけを作ったのは、西郷の命令で江戸で暴れた連中でした。
それが「勝てば官軍」となり、薩長が「正当性がある」へ、会津は「正当性がない」へと立場が逆転しました。



会津戦争後の
会津藩の人たちの遺体に対する扱い・・・



さらに、その後の
僻地への移動命令・・・



許せん・・・
薩長は絶対に・・・



特に薩摩だけは・・・
薩摩だけは、絶対に許さん!



・・・・・



咲子には
絶対に幸せになってもらわねば・・・
兄・浩の答えを待つ咲子の前で、浩はこう考えていました。
この間、十数秒程度で、咲子はじっと待っていました。
敬愛し続けていた兄・浩の返答を。
次回は上記リンクです。


