前回は「「生きた英語」を習得できる「山川塾」構想〜私塾設立を兄浩に相談した咲子・廃藩置県の年に留学・・英語もフランス語も習得〜|山川捨松21・人物像・エピソード」の話でした。

「私塾設立」の相談受けた山川浩:蘇る会津戦争の凄惨な記憶

山川咲子お兄さん、
私、私塾を作って、教えたいの!



私は、アメリカに11年いたから、
英語はアメリカ人と同じくらい話せる!



若い子達に英語の読み、書き、
そしてきちんとした発音を教えたいの!
15歳年上の兄・浩に、「山川塾」構想を相談した咲子(捨松)。
15歳年上の浩にとって、15歳年下の咲子は目に入れても痛くないほど可愛い妹でした。
結婚年齢が早かった当時、「15歳年下」は、「子どもに近い」存在でした。



咲子が
私塾設立か・・・
そして、「捨松」と名前を変えましたが、浩にとっては、いつまで経っても元の名前の「咲子」でした。



それは確かに
良いアイデアだな・・・



咲子の英語力は
抜群だからな・・・



あの咲子が
素敵な女性になったな・・・
22歳の咲子に対して、37歳の壮年だった浩。
今回は、兄・浩の視点から見た物語なので、「捨松」ではなく「咲子」で通します。


若い頃から、爽やかな青年で頭が切れた浩は、かつて山川大蔵という名前でした。



咲子!
行ってこいよ!
そして、1882年の11年前だった1871年、岩倉使節団に随行して米国留学を強く推進したのが大蔵でした。
もしここで、大蔵が、



いや、咲子、メリケンに
留学するのはやめろ!
このように「米国留学に反対」の姿勢であったら、咲子は米国留学を断念したかもしれません。
当時、名前を大蔵から浩に変え、陸軍歩兵大佐という帝国陸軍の幹部になっていた山川浩。



あの咲子が、
英語をマスターして・・・



こんなに
成長するとは・・・
可愛がっていた妹が成長したのを見て、浩は咲子の小さな頃を思い出しました。



会津戦争の時は、
咲子は7歳だったか・・・
そして、咲子が現在の小学校2年生の頃に、会津戦争が勃発しました。



会津戦争・・・
あれは本当に凄惨な戦争だった・・・
咲子の小さい頃を思い出した山川浩の脳裏に、会津戦争の記憶が蘇ってきました。
新官軍オールスターの到来





恭順するから、
私を助命して頂きたい・・・
将軍慶喜は早々に新政府軍に恭順してしまい、会津藩主・松平容保は徹底抗戦を決めました。



「松平」の名にかけて、
徳川の最後を飾ろうぞ!
江戸時代の武士道教育は、武道よりも「武士の精神」に重きを置かれていました。
そのため、「戦うために存在」する武士にとっては、「降伏すること」は「死ぬこと」と同等でした。
本来ならば、ボスである将軍が降伏した以上、



将軍が降伏したので、
我らも恭順しよう・・・
家臣であった容保たちも、「降伏すれば良い」という考えもあったはずです。
当時、京都守護職という極めて重要な役職にいた松平容保は、京都の治安維持部隊でした。



おのれ!
薩長めが!
強力な藩士を有しており、新撰組も配下にいた会津藩の軍事力は飛び抜けていました。





錦の御旗、
だと?



なぜ、錦の御旗が
薩長に?!
錦の御旗の登場によって、幕軍は一気に総崩れになりました。



怯むな!
我が会津藩士の底力見せよ!
山川浩は懸命に指揮しましたが、「敗北の勢い」は止まらず、敗走しました。



会津で、我らの
最後の花を咲かせようぞ!



ははっ!
会津で最終決戦を!
そして、京都から遠い会津の地で幕軍と最終決戦を挑むことにした、松平容保以下会津藩士たち。
事態は、どこからみても「幕軍に不利」でしたが、「有利か不利か」はもはや問題ではありませんでした。





会津を
叩き潰すのだ!
後に、西南戦争で熊本鎮台司令官として、鎮台を守り抜いた土佐の猛将・谷干城。
谷干城が、満を持して会津に乗り込んできました。
谷干城、児玉源太郎に関する問題を、上記リンクでご紹介しています。
谷干城は、板垣(乾)退助と共に「土佐の猛将二強」であり、大変優れた将軍でした。





我が薩摩が、会津を
叩き潰すのだ!
さらに、当時「中村半次郎」という名前であった桐野利秋が屈強の薩軍を率いて、乗り込んできました。
後に西南戦争で、西郷軍の中核指揮者となる桐野は、この頃は、



この私が
「人斬り半次郎」じゃ!
多数の暗殺に手を染め、「人斬り半次郎」と呼ばれ、世間から恐れられた存在でした。
いわば「新官軍オールスター」が会津に乗り込んできた状況で、大変な苦戦を強いられた会津。
当時、若いながら、会津藩家老・防衛総督に就任していた浩は、



なんとか、薩長を
倒すのだ!
懸命に、野戦に続いて籠城戦を指揮しました。
「この世の超絶地獄」会津戦争:「焼玉押え」と身を挺して戦った女性たち





会津城を
砲撃せよ!
新官軍は、大英帝国などから輸入した大量の大砲で会津城を砲撃しました。
会津城及び会津周辺では、多数の女性や女子も一緒に戦いました。



ドカンッ!
ご飯を作ることはもちろん、砲弾作りなど身を挺して女性たちは会津の将兵を応援しました。
戦時中に「銃後の務め」という言葉がありましたが、銃後ではなく「銃前の務め」を果たした女性たち。
新官軍が打ち込んだ大砲が城内に入ってきて、まだ炸裂していない時は、



あの砲弾が
炸裂する前に・・・



私が砲弾の炸裂を
止めてみせるわ!
大量の水で濡らした筵(むしろ)などを持って、砲弾に飛びかかった女性も多数いました。
これは、「熱せられた砲弾を冷ませば、炸裂しない可能性がある」ためでした。
濡れ筵(むしろ)などで、城内に飛び込んできた砲弾を破裂寸前で押さえた「焼玉押え」という役割でした。



シュー・・・・・
うまく冷えて、炸裂防止に成功した場合もありましたが、



ドカンッ!



きゃっ!
砲弾が炸裂してしまい、すぐ近くにいた女性が即死した例も多数あった説があります。
砲弾の近くにいて炸裂した場合、即死では済まず、身体が木っ端微塵になった女性もいたと思われます。



・・・
会津城内では・・・



この世とは
思えぬ光景を多数見た・・・
まさに、「生き地獄」となった会津城内。
この時、浩の妻・トセが会津城内で戦死しています。



我が妻も
死んでしまった・・・
そして、半年ほどの会津戦争の後、会津藩は降伏しました。



我が会津藩は
懸命に戦ったが・・・
1882年当時、14年前の「この世の超絶地獄」会津戦争を遠い彼方に思い出した浩。
咲子を前に、「会津戦争とその後の歴史」を反芻していました。
この間、数秒程度でした。



・・・・・
「山川塾」構想に対して、咲子は兄・浩の答えを待っていました。
次回は上記リンクです。



