前回は「女子学院中高の教育理念と歴史〜明治維新とミッションスクール・限定された江戸時代の女子教育・寺院での学びから寺子屋での道〜」の話でした。
幼少から超優等生だった福澤諭吉:幕末維新の志士たちと同世代

前回までに、海城、麻布、女子学院中高の設立時期と時代背景を考えました。
| 設立年 | 学校名 |
| 1870年 | 女子学院 |
| 1884年 | 麻布 |
| 1891年 | 海城 |
今回は慶應義塾中高の設立時期などを考えてみます。
現代、慶應義塾大学と早稲田大学をまとめて「早慶」と呼びます。
そして、「早慶」は「私立大学の双璧」として考えられています。

慶應といえば福澤諭吉です。
福澤諭吉は、長年「一万円札の肖像」であったので、多くの人が知っています。
現代の慶應系中高において、慶應義塾は慶應普通部、慶應中等部など様々な学校があります。
それらの全ての源流は慶應義塾です。

上の写真は、福澤諭吉が27歳頃の写真です。
一般的に馴染み深い「名を挙げた後の写真」と比較して、とても若々しいです。
そして、この若い頃の福澤の顔つきを見ると、いかにも自信ありげな雰囲気です。
福澤諭吉自分で言うのも
なんですが・・・



私はかなり
頭が良いです!
幼い頃から超優等生だった福澤諭吉は、自分自身を「頭が良い」と認識していたでしょう。
1835年、中津藩の下級藩士の家に生まれた福澤諭吉。
| 名前 | 生年 | 所属 |
| 大村 益次郎 | 1825 | 長州 |
| 西郷 隆盛 | 1827 | 薩摩 |
| 武市 瑞山 | 1829 | 土佐 |
| 大久保 利通 | 1830 | 薩摩 |
| 木戸 孝允 | 1833 | 長州 |
| 坂本 龍馬 | 1835 | 土佐 |
| 福澤 諭吉 | 1835 | 中津 |
| 中岡 慎太郎 | 1838 | 土佐 |
| 高杉 晋作 | 1839 | 長州 |
| 久坂 玄瑞 | 1840 | 長州 |
福澤諭吉は、幕末維新の志士たちと同世代で、坂本龍馬と同年に生まれました。
この時期は「もうすぐ幕末の時代」ですが、まだまだ幕府の力は強かった時代です。


1835年は、徳川幕府第11代将軍・徳川家斉の治世であり、徳川幕府は「バリバリの日本政府」でした。



剣術も勉学も
一生懸命やりました!
「藩士=武士」であった福澤諭吉は、剣術も学問も一生懸命でした。
そして、10代前半の頃には早くも頭角を表した福澤。
暗記力が非常に高く、極めて優秀な藩士でした。
慶應義塾中高の教育理念と歴史:「慶應」に込めた思い


1853年にペリー提督が来航し、翌1854年に日米和親条約締結となります。
この1854年に、19際になる年齢であった福澤諭吉は長崎に遊学に出ました。



外国の方が
随分と進んでいるらしい・・・



もっと、もっと
勉強しなければ・・・
現代の大学生の年齢の頃、長崎に向かった福澤。
中津藩は現代の大分県であり、長崎が比較的近かったのも良い状況でした。
1.長崎・出島:徳川幕府の公式窓口(オランダ・中国)
2.対馬・宗氏:徳川幕府が公認・間接的関与(朝鮮)
3.蝦夷・松前氏:徳川幕府が半公認・間接的関与(蝦夷及びアイヌ)
4.薩摩・島津氏:徳川幕府は非公認だが事実上黙認(琉球・中国・東南アジア)
鎖国政策が続いていた当時、長崎は徳川幕府最高の「海外との窓口」でした。
「窓口」長崎には、中国・オランダなどからの人物・書籍が多数やってきていた当時。
そして、米国と日米和親条約を締結し、各国と同様の条約を締結したため、「学問のメッカ」でした。
鎖国に関する問題を考えるコツを、上記リンクでご紹介しています。



やはり、蘭学が
時代の最先端だな・・・
幕末までは、日本にとって「欧米と言えば、まずはオランダ」でした。
そのため、日本においては、「オランダの学問=蘭学」が最高峰でした。
そして、ある程度蘭学を学んだ福澤諭吉は、「蘭学のメッカ=適塾」に入校しました。





ようこそ、
適塾へ・・・
医師であった適塾は「医師養成機関」でしたが、「蘭学のメッカ」でもありました。
1855年に適塾に入塾した福澤諭吉は、持ち前の学力でメキメキ頭角を表しました。



福澤君は、
とても優秀ですね・・・


多数の人材を輩出した適塾には、全国から優等生が集まりました。



適塾の
塾頭となった!
そして、1857年、最年少22歳で適塾の塾頭となった福澤諭吉。
この事実は、福澤諭吉がいかに優秀であったかを示しています。
さらに蘭学を学び続けた福澤諭吉は、中津藩から目をつけられました。



福澤よ、
我が中津藩江戸藩邸の皆を教えて欲しい・・・



よしっ、
若者たちを教えましょう。
そして、1858年、蘭学塾「一小家塾」で講師となった福澤。
この一小家塾が、慶應義塾の起源と言われます。
時代は、猛烈な勢いで幕末に向かっていました。


1860年には、桜田門外の変で、大老・井伊直弼が白昼に暗殺される重大事件が勃発。
すでに中津藩を通じて、「徳川幕府側の人間」だった福澤は巨大な衝撃を受けました。



これは・・・
もっともっと後進を育てねば・・・
そして、咸臨丸による米国使節団の一員など重要な役職を果たした福澤。


そして、幕末を迎え、明治となる1868年を迎えました。
この1868年は「明治元年」であると同時に、旧幕府時代の「慶應四年」でした。
「徳川幕府側」であった福澤にとって、徳川幕府瓦解時、西郷や木戸たちは「敵」でした。
後に、明治時代になって、福澤は西郷を極めて高く評価するようになります。



消えてしまう
「慶應」の名前・・・
そして、徳川幕府による「慶應」という名称を大事にした福澤は、自身の学校の名称としました。



とにかく
独立自尊の精神が大事だ!



我が学校の名称は
慶應に義塾を加えた慶應義塾!
独立自尊
そして、小学校・中学・高校・大学を併せ持つ「私学の超巨頭」慶應義塾が誕生しました。


