各国で急成長した守護代の存在〜承久の乱を乗り越えた「尼将軍」政子・妨害された「朝廷の目論見」〜|日本史における大名5・中学受験

前回は「鎌倉時代を彩った守護たち〜「各国トップ」任命の権力掌握した頼朝・抜群の政治力有した北条政子・頼朝のバック=北条家の存在〜」の話でした。

目次

承久の乱を乗り越えた「尼将軍」政子:妨害された「朝廷の目論見」

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平安時代末期に、自然発生的に各地に登場した大名という存在。

各地の大名たちは、名田を多数所有する各地域の有力者・実力者たち」でした。

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鎌倉幕府初代将軍 源頼朝(Wikipedia)
源頼朝

これからの時代は、
守護と地頭が、各国を統治する!

そして、日本初の武家政権=武力政権である鎌倉幕府は、1185年に各地に守護・地頭を設置しました。

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守護・地頭は両者とも重要な役職でしたが、最も強い存在だったのが守護でした。

地頭はいわば「守護の補佐役」であり、「各地への守護設置」こそが「鎌倉幕府の本質」でした。

この緻密極まりない政治機構を生み出した頼朝によって、日本の統治機構は抜本的に変化しました。

源頼朝

これで、我が源氏による
時代は長く続くであろう・・・

頼朝は、このように考えたに違いありません。

ところが、源氏将軍は三代で「あっさり終了」となり、以後は「お飾り将軍」が続きました。

そして、妻・政子の実家であった北条家が執権として「源氏将軍の代わりに統治」する時代になりました。

後鳥羽上皇(Wikipedia)
後鳥羽上皇

あの頼朝が亡くなり、
源氏将軍が途絶えた・・・

後鳥羽上皇

ならば、政権は
我ら朝廷に返してもらおうか!

守護・地頭設置の1185年から、わずか36年しか経過していない1221年、後鳥羽上皇が挙兵しました。

後鳥羽上皇

そもそも、我が国の
統治は、ずっと朝廷なのだ!

この「後鳥羽上皇の論理」は正しく、「実力者=源氏将軍不在」の鎌倉幕府は一大危機に陥りました。

日本において、ずっと「最強」と言うよりも「雲の上の存在」であった上皇による挙兵。

本来ならば、「後鳥羽上皇の目論見は達成された」はずでした。

ところが、後鳥羽上皇にとって、「思わぬ存在」が上皇を阻みました。

鎌倉幕府 御台所(源頼朝妻) 北条政子(Wikipedia)
北条政子

上皇自らが出てきては、
我らは、かなり危うい・・・

北条政子

御家人達を奮起させて、
戦い抜かなければ・・・

前代未聞の一大危機に直面した、「尼将軍」北条政子は、自ら陣頭に立ちました。

北条政子

皆の者!頼朝公の御恩は、
山より高く、海より深い!

北条政子

上皇たちに、
我ら武士の力を見せつけるのだ!

御家人A

おお〜!!!

「異様に強力な政治力」を持っていた北条政子によって、御家人たちは一気に盛り上がりました。

後鳥羽上皇

まさか、まさか、
我が朝廷軍が敗北するなど・・・

後鳥羽上皇軍は敗北し、朝廷側は一気に権力を失ってしまいました。

後白河法皇と後鳥羽上皇に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

鎌倉幕府の統治機構を継承した室町幕府

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室町幕府初代将軍 足利尊氏(Wikipedia)
足利尊氏

鎌倉幕府を
倒したぞ!

足利尊氏

これからは、我が足利家が
室町幕府を開く!

かつて、「平家から源氏」に権力が移ったように、「北条家から足利家」に権力が移行しました。

ここで、注意したいことは、鎌倉幕府には源氏将軍以降に「お飾り将軍が存在したこと」です。

鎌倉幕府の統治機構として執権が最高位でしたが、「源氏将軍を継ぐ立場の将軍」がいました。

執権・北条家は「桓武平氏」を名乗っており、その点では「平氏」でした。

この「執権・北条家が平氏である」ことに関しては、諸説あります。

そして、足利尊氏は、そもそも「源氏」でした。

「北条から足利」ならば、「平氏から源氏」へ移ったことになります。

一方で、「将軍家は源氏の流れ」と考えると、正式には「源氏から源氏」で「似ていた」のでした。

足利尊氏

我が足利家が
統治するが・・・

足利尊氏

各国の守護は
そのまま継承しよう!

源頼朝と異なり、足利尊氏は「武人」側面が強く、政治家の要素が少ない人物でした。

そして、そもそも「各地の有力者=守護」たちの協力を得て、達成したのが室町幕府でした。

この二つの理由から、室町幕府は鎌倉幕府の統治機構を「継承せざるを得ない」状況でした。

各国で急成長した守護代の存在

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各国に配置された守護に代わり、「代理役」として、守護代が設置されました。

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今回は、鎌倉〜室町時代の守護代の中で、戦国時代に大大名化した家の話です。

今回も、罫線がないノートで自由な発想で、まとめてゆきましょう。

各地に登場した守護代の中で、室町〜戦国に力を伸ばしたのが長尾・朝倉・尼子・三好などでした。

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この中で、最も有名なのは長尾景虎で、後の上杉謙信です。

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戦国大名 上杉謙信(長岡景虎)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
上杉謙信

我が長尾家は、
もともと守護代の家柄で名門だ!

上杉謙信

守護より家格は劣るかも
しれんが、私は関東管領を継いだのだ!

「古い秩序」を継承する姿勢が強かった謙信は、守護代と関東管領によって、強力な存在となりました。

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朝倉家は、越前の守護代として、かなり強力な力をつけ、事実上「越前王」となりました。

朝倉家の例は、「守護代が守護に取って代わった」例です。

日本海の貿易(交易)を押さえ、強力な大名であった朝倉家でしたが、織田信長に滅ぼされました。

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山陰の覇王であった尼子家もまた、巨大な勢力となりましたが、毛利元就に滅ぼされました。

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近畿周辺を押さえ、一時は「天下人」の存在であった三好家。

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「信長以前の天下人」であった三好家は、最高実力者・三好長慶の死後に分裂してしまいました。

この分裂によって、一気に力を落とした三好家は、織田信長によって滅ぼされてしまいました。

室町時代において、「守護と同格」となった守護代が多数存在しました。

そして、守護が守護大名・戦国大名へ発展したように、

上杉謙信

越後守護代兼
関東管領の私が世を治めるのだ!

守護代もまた守護大名・戦国大名へと成長しました。

言わば、「代理役」ながら「主役」として、各国の王となった守護代が多数生まれました。

そもそも「代理役」に過ぎなかった守護代は、室町から戦国時代を強く彩る存在となったのでした。

次回は上記リンクです。

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