前回は「各国で急成長した守護代の存在〜承久の乱を乗り越えた「尼将軍」政子・妨害された「朝廷の目論見」〜」の話でした。
「わずか三代で終了」した源氏将軍:明治維新以前の最大の変革
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源頼朝が各地の統治のために設置した「守護と地頭」は、守護が非常に強力な存在でした。
そして、各国に配置された守護たちは、司令長官として各国を統治しました。


各国の司令長官である
守護の任命権を鎌倉幕府が握った!



これで、我ら源氏による
幕府機構は、長く支配するだろう・・・
1185年に設置した「守護と地頭」こそが、鎌倉幕府の本質でした。
そして、その後、守護は室町幕府にも継承されたため、頼朝の目論見は「当たった」のでした。
一点、頼朝の「完全な想定外」がありました。



長く続くはずだった
源氏将軍が、「我が次男(実朝)で終了」だと?
それは、「源氏将軍がたった三代で消滅した」ことでした。
この「源氏将軍三代で消滅」に関しては、陰謀説が有力です。
兄・頼家の子・公暁に暗殺されてしまった、三代将軍・源実朝。





まさか、
兄・頼家の子に暗殺されるとは・・・



考えもしなかったが、
どうして、このような事態に・・・
満26歳で「暗殺された」実朝も若かったですが、「暗殺した」公暁は満19歳でした。
当時の19歳は、現代と異なり「遥かに大人」でしたが、それでも「19歳は19歳」です。
公暁は、幕府内の権力闘争に利用されたのは、誰が見ても明らかでした。
年号 | 出来事 |
1185年 | 頼朝、守護・地頭を設置 |
1192年 | 頼朝、征夷大将軍に就任:鎌倉幕府創設 |
1199年 | 鎌倉幕府初代将軍・頼朝死去 |
1204年 | 鎌倉幕府三代将軍・頼家、追放後暗殺 |
1219年 | 鎌倉幕府三代将軍・実朝、公暁により暗殺 |
そもそも、頼朝が死んでから、「たった20年」で「近い肉親の暗殺」で終了した源氏将軍。
実は、頼朝の死にも不自然な点があり、「暗殺説」があります。
明治維新以前の、「日本の歴史の大転換」であった鎌倉幕府の統治機構成立。
あまりに急激な転換であったために、多大な権力闘争と不幸な事態が続いてしまいました。
この「転換期の多大な権力闘争と不幸な事態」は、世界中の歴史に良く見られる現象です。
「下が上を消す」下剋上
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源頼朝の「源氏将軍による各国支配」は思惑が外れてしまったものの、守護は室町期も続きました。
そして、幕府機構が変わっても、各地の守護・守護代たちは、各国・地域の有力者であり続けました。
各地には、上の長尾(上杉)・朝倉・尼子・三好のように、強力な存在となる守護代が登場しました。
彼らは「守護の力を上回る」力をつけ、言わば「守護にとって代わった」存在でした。
「下剋上(げこくじょう)」と呼ばれる戦国時代。
「下剋上」とは、「下が上に剋(か)つ」という意味です。
・「下が上に剋(か)つ」意味で、身分が下のものが上のものに代わって実権を握ること
・「取って代わる」プロセスにおいて、武力に訴え、上のものを消す(殺害する)ことも多数
「下剋上と言えば戦国時代」ですが、実態としては、鎌倉時代から見られた現象でした。
中には「平和的下剋上」もありましたが、多くは「血が流れる下剋上」でした。





越後守護は
頼りないから・・・



越後守護代の長尾景虎が
越後を納めてみせよう!
越後守護代から、「事実上の越後国主」へと成長した長尾家率いた長尾景虎(上杉謙信)。
越後守護から、守護代・長尾家への権力移行は「比較的平和」でした。
この例は稀で、多くは「上だった者が消される(殺される)」プロセスを経たのが実態でした。
守護代を支えて各地で力を付けた者たち
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そして、「守護代が守護格に」なると「守護を補佐していた守護代の代わり」が必要になりました。
いわば「一番上の守護が消えた」ことによって「それぞれのランクがワンランクアップ」となりました。
そこで、「守護代の重臣」たちの立場が飛躍的に上昇し、各地の有力者となりました。
今回は、「守護代を補佐した重臣」の内、戦国時代に大大名化した家を見てみましょう。
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この「守護代の重臣・補佐役」から発展した家には、織田家と伊達家があります。
信長の織田家は、尾張の南半分の守護代・清洲織田家の重臣三家の一つでした。
・尾張北四郡:岩倉織田家(伊勢守)
・尾張南四郡:清洲織田家(大和守)
元は「尾張守護代・織田家」は一つでしたが、権力闘争の過程において、分派しました。
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そして、信長の父・信秀の代に、「信長の織田家」は大きく飛躍しました。





この信長の織田家は、
守護代・織田家の下であった・・・



だが、この私は実力で
尾張を制圧し、天下に覇を唱えたのだ!
元は「尾張半分の守護代の下」だった「信長の織田家」でしたが、莫大な経済力を持ちました。


そもそも、「尾張の半分」と言っても、戦国末期に60万石近い石高を有した「No.3」の尾張。
No.1の武蔵、No.2の近江と比較して、面積が小さい割に異常に高い生産力を持っていました。
さらに、商業が盛んで、海運も繁盛していた「別格の国」が終わりでした。
そのため、「尾張半国」と言っても、「一般的な一国を遥かに上回る経済力」を持っていたのでした。
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そして、伊達政宗を輩出した伊達家は、奥州の地頭・守護の補佐役から発展しました。





この政宗の伊達家は、
守護代の下であったが・・・



この政宗の力で、
奥州の覇者となったのだ!
伊達政宗に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
このように、「守護と守護代」から「守護代と守護代補佐役」へ移行した国が多数ありました。
このプロセスの中で、天下人・織田信長が生まれたのでした。