前回は「守護と地頭による鎌倉幕府の「武力政権」樹立〜日本史に大転換を引き起こした源頼朝・各地の大名小名を任命・地頭より遥かに強力だった守護〜」の話でした。
日本の国家像変えた源頼朝


この源頼朝が
武家政権を樹立します!
日本の歴史上、初めて「武家政権=武力政権」を成立させて源頼朝。


源氏が実権を握る前は、平氏が実権を握った時代が続きました。
古来から天皇が率いる朝廷によって政治が行われ、統治されていた日本の国家像。
隣国の中国では、早い時期から武力による抗争が行われ続けていましたが、日本は比較的平和でした。





この曹操が
中国の覇者となるのだ!
歴史好きの人の中には、「三国志が好き」という人が多数います。
筆者は小学生から中学生・高校生の頃に、三国志に関する本を多数読みました。
三国志は「魏・呉・蜀の三国」が覇を競った物語ですが、概ね180年〜250年頃の話です。
日本が縄文時代で比較的「のどかな時代」だった頃、中国では「武力による争い」が頻発していました。
Daimyo_A108tsそして、日本においても、「武力による統治」が各地で芽生えて、大名・小名が生まれました。
hs11_108ts朝廷・貴族による統治の中、武家たちが争い初めて、様々な大乱が頻発する時代となりました。
前九年・後三年の役に関する問題の話を、上記リンクでご紹介しています。
年号 | 合戦名 |
1051年 | 前九年の役 |
1083年 | 後三年の役 |
1156年 | 保元の乱 |
1159年 | 平治の乱 |
上の四つの合戦・乱が発生し、日本における「武力による統治」の訪れを暗示していました。



もはや、こうなったら
武力によって世を治めるしかない!



そして、我が源氏が
頂点に立ちましょう!
そして、源頼朝によって、日本の国家像は大きく変わりました。
Daimyo_B107ts全国に守護・地頭を設置した「武力統治体制」を確立した頼朝。
特に「強力な守護」の存在によって「全国に睨みを効かせた」のでした。
全国支配体制固めた「守護代」の存在
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今回は「守護と守護代」の話です。
今回も、罫線がないノートで自由な発想で、まとめてゆきましょう。
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各国の「軍事指揮官・司令長官」の役目を果たす存在だった守護。
平安時代末期から、自然発生的に各地に大名・小名が生まれましたが、その中、



鎌倉幕府が任命する
守護には、強力な軍事力を与える!
新たに「幕府」という政治機構が成立し、「国のトップ=守護」が確立しました。
実は、「幕府」という言葉は当時なく、江戸時代頃以降生まれた言葉です。
「幕府」という言葉がなくても、「源氏による政権」の確立は全国に知れ渡りました。



奥州で独立国のような
藤原氏を討滅する!
弟・義経との確執もありましたが、奥州・藤原氏に一方的に攻め込んだ頼朝。



日本全国の
大名・小名たちよ!



この頼朝の
指示に従え!



ははっ!
頼朝様の下知(命令)に従います!
全国各地へ動員令を下し、自ら奥州に攻め込んだ頼朝。
この「総動員」には、はるか遠くの薩摩・島津氏にも下った記録が残っています。
現代でも「遠い」九州から東北地方までの道のり。
例えば、鹿児島から仙台まで飛行機で行くなら良いですが、新幹線など電車では時間がかかります。
当時、「薩摩(鹿児島)から奥州(東北地方)へ攻め込む」のは大変だったでしょう。



我が島津家に、
頼朝様から下知が降った!



者ども!
奥州へ攻め込むのだ!
奥州・藤原攻めは、「目の上のたんこぶ」をつぶした意味もありましたが、



各地の守護・地頭は
私の命令に従ったな・・・



これで、源氏の支配体制は
確立されたのだ!
「源氏の支配体制確立」のために、「外部の強敵をつぶした」要素が強いです。
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守護の職には、「一人で複数の国の守護を兼ねる」人物も登場しました。



我が島津は、もともと
薩摩などの有力大名だった・・・



頼朝様の信任厚く、
薩摩・大隅・日向の守護を命ぜられた・・・
あるいは、「国のトップ」であった守護は、中央政府や各国などに出張する場合もありました。
この場合、各国の「司令長官が不在」となる事態になります。
現代ならば、少し遠くても「日帰りで出張」も可能ですが、当時は飛行機も新幹線もありません。
また、当時は船は比較的使われていて便利でしたが、「陸地の移動」が多いです。
そのため、自国の外に「主に馬・または徒歩で移動」するしかなく、



〜国に
所用があるが・・・



移動を含めると
数ヶ月はかかるな・・・
「守護=司令長官」不在の期間が、数ヶ月あることも多かったでしょう。
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現在の知事よりも遥かに強力だった守護が不在では、その国は困ってしまいます。
そこで、「守護の代わり」として「守護代」が任命されました。
巨大化して頭角を現した守護代たち
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守護の「代わり」または「代理」であった守護代は、いわば「臨時司令官」の役割でした。



私が守護代となって、
国を治めましょう!
「臨時の代理」であったものの、守護不在の場合は「守護の権限を行使」が可能であった守護代。
やがて、守護代に権限が集中する事態も発生しました。
あるいは、



守護よりも
守護代の方が頼りになる・・・



これからは守護代を
中心にして、国を治めよう!
このように、人物の器量によっては、「守護代の方が良い」という声もあったでしょう。
あるいは、現代よりも「一族の力」が重視された当時。
「守護一族」よりも「守護代一族」の方が強力になった国もありました。



私は「代理」の
守護代だが・・・



この国は、私が
治めるのがベストだろう・・・
様々な要因によって、守護代が「のし上がってゆく」現象が各地で見られるようになったのでした。
次回は上記リンクです。