前回は「西南戦争当初の西郷隆盛の動きの真相〜なぜ戦争に踏み切ったか?・「明治維新最大の英雄」西郷隆盛の銅像の謎・写真が存在しない西郷隆盛〜」の話でした。
「私学校」薩摩軍団が運営した鹿児島:「水と石」だった西郷隆盛と島津久光

西郷隆盛明治政府に
尋問の議あり!



吉之助さぁに、
どこまでもついて行く!



西郷先生ともう一度
維新を!



西郷先生と
共に第二の維新だ!
江戸から明治となった1868年から9年後の1877年、西郷隆盛たちが決起しました。
明治10年であり、箱館戦争などもありましたが、概ね「明治維新からちょうど10年」でした。
西郷隆盛率いる薩摩軍が、東京目指して進軍を開始したのでした。
上の表の通り、幕末から明治の頃の薩摩の中核において「お兄さん」だった西郷隆盛。
1877年当時は、有馬新七が寺田屋騒動ですでに戦死し、大山綱良は鹿児島県令(知事)でした。
西郷隆盛を中心とする薩摩藩士たちの話を、上記リンクでご紹介しています。



吉之助を
支援しよう・・・
西郷隆盛の3歳年上の大山綱良は、もともと島津久光派であり、西郷とは「良好ではない関係」でした。
ところが、大久保利通が島津久光を「裏切る」形となり、「反大久保」の西郷と良好な関係に転じました。



一蔵(大久保)なんかの
言うこと、聞けるか!
つまり「敵の敵は味方」の論理となり、西郷と大山綱良は良好な関係でした。



私学校の連中で
鹿児島県を動かす!
西郷隆盛と共に下野した「薩摩軍団」が、鹿児島県を運営するような妙な状況でした。
そして、「半独立国」のような状況になっていたのが、西南戦争直前の鹿児島県でした。





何度でも言うが、
私は西郷が大嫌いだ・・・



本音を言えば、
西郷の顔を見るのも嫌なのだ・・・



・・・・・
とにかく「水と油」を超えて、「水と石」のような関係だった西郷隆盛と島津久光。
この島津久光との「宿命的なすれ違い」もまた、西郷の精神を非常に悪化させていた大きな原因でした。
桐野や篠原を説諭した西郷隆盛:「決起の同意を迫った」弟子たち


上の写真は、西南戦争が勃発した1877年2月10日の、東京日日新聞です。
当時の状況を知ることが出来る、極めて貴重な資料です。



鹿児島県士族の
暴挙は全く確実・・・
もともと「武士=薩摩藩士」という階級だった西郷や桐野らは、当時「士族」という階級でした。
廃刀令などで、武士の特権が剥奪される中、



武士は、この世から
消したいが・・・



一気に消すわけには
いかない・・・
明治政府は、とりあえず「士族」という特別な階級を設けて、武士層との融和を図りました。



以前より、右の
暴徒は西郷氏に迫り・・・



是非とも同意致されよと
切迫に激論したけれども・・・



同氏(西郷)は一向に
同意せられず・・・
激昂した桐野たちに対して、西郷は「一向に同意していなかった」事実を伝えています。
つまり、



西郷先生!
我らと一緒に決起しましょう!



いや・・・
おいどんは同意しない・・・
このように、当初は「桐野たちに一向に、全く同意していなかった」西郷。



却て色々と
説諭されたけれども・・・
東京日日新聞の報道では、西郷は「決起を促した」のではなく、



おはん(お前)ら・・・
それは違う・・・



決起などしては
ならぬ!
このように、桐野たちを「説諭・説得」していた事実をはっきりと伝えています。



暴徒の勢も亦
止まるべからずと察せられしや・・・
ところが、どんなに西郷が説得しても、



もはや、桐野どん、篠原どん
たちを止めるのは無理か・・・
幕末維新の頃は、「西郷の命令ならば何でも聞いた」桐野たち。



よしっ!
メリケン(米国)に攻め込むぞ!
仮に、幕末の頃に、西郷隆盛が桐野らに「米国侵攻」を命令していたら、



分っかりました、西郷先生!
今すぐ、メリケンへ攻め込みます!
「おっとり刀」で、本気で、米国に攻め込んだであろう桐野たち。
攻め込む先が、近くであろうが地球の裏側であろうが、大英帝国であろうが攻め込んだでしょう。
ところが、「時代は変わっていた」のでした。
この頃、桐野たちは西郷の説得を「拒否する姿勢」を明確に示していました。



どうする・・・
桐野どんや篠原どんと共に決起するのか・・・
かつては、「西郷の一言」で、なんでも言うことを聞いた篠原や桐野らの「西郷の弟子たち」。
ところが「弟子たちが言うことを聞かない」存在となってしまいました。
さらには、「弟子たちが、師匠・西郷隆盛の説得を拒否」の事態に対し、



・・・・・
「明治維新最大の星」であった西郷は懊悩し、悩みに悩み続け、翻弄されつづけていました。
「時代の変化」という大きな荒波、に。


