合否分ける記述の書き方〜簡潔にポイントを説明・ネルーの日本史分析・信長→秀吉→家康のバトンタッチと天下統一〜|武蔵中1990年社会4・過去問・中学受験

前回は「歴史に興味を持って成績を上げるコツ〜日本の歴史的立場と元寇・「外国の方の日本史への視点」を楽しむ姿勢〜」の話でした。

目次

ネルーの日本史分析:信長→秀吉→家康のバトンタッチと天下統一

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前回の問1〜問3は原題にあった問で、筆者が追加した問4〜問5に進みます。

New Educational Voyage
ジャワハルラール・ネルー インド初代首相(Wikipedia)
ネルー

3人の人物(信長・秀吉・家康)が登場して、
全日本は再び統一された・・・

ネルー

日本を統一してしまうと、彼らの
大軍団をもて扱いかねた。

ネルーは、戦国時代の信長・秀吉・家康をまとめて「彼ら」と表現しています。

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左上から時計回りに戦国大名・天下人 織田信長、豊臣秀吉、北条氏政、徳川家康(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

この「信長・秀吉・家康のグループ化」は、ある意味で、本質的とも考えます。

そもそも、秀吉は信長の家臣(重臣)であり、家康は信長の同盟者でありながら「重臣同然」でした。

長年の宿敵・武田を滅ぼした時、

織田信長

家康殿には、
武田旧領のうち、駿河を与えよう!

徳川家康

ははっ!
あり難き幸せ!

信長は家康の主人の如く、駿河を家康に「与えた」のでした。(実際は、穴山梅雪領除く)

信長→秀吉→家康のバトンタッチは、「それぞれ前任者が想定外」だったのが現実です。

一方では、ネルーのような外国の方から見れば、

ネルー

どこから見ても、
この3人は仲間であり、同一グループ・・・

としか、考えようがないでしょう。

合否分ける記述の書き方:簡潔にポイントを説明

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長篠の戦い(戦国合戦絵巻 ダイヤプレス)

「いつから戦国時代か」は諸説ありますが、1467年に勃発した応仁の乱頃から戦国時代です。

すると、秀吉による1590年の天下統一まで、おおむね130年ほどは戦乱の時代だったのが日本です。

この時代は、大小様々な合戦が日常茶飯事に行われていた時代で、「武力こそ力」の時代です。

ここで、問4では、

出題者

彼らが大軍団をもて扱いかねた、は
どのようなことですか?

と「大軍団をもて扱いかねた」理由を質問しています。

ネルーの視点から見れば、

ネルー

3人が一丸となって日本の再統一に
乗り込みんだのだろう・・・

ネルー

そして統一の結果、
膨張した軍を「扱いかねた」のだろう・・・

ネルー

その結果が、朝鮮侵略
なのだろう・・・

と、日本のこの頃の歴史の分析・総括しています。

このネルーの分析は、一面当たっていますが、必ずしも正確ではない面があります。

豊臣秀吉

よしっ!
朝鮮を侵略するのだ!

秀吉が朝鮮侵攻を実行したのは、「信長の遺志を継いだ」とも言われています。

戦国時代から急速にキリシタン(キリスト教信者)が増加し、スペインの圧力が高まっていた当時。

当時、南蛮と呼んでいたスペイン等「キリスト教国(日本から見て)」に対する姿勢という説もあります。

いずれにしてもネルーの「もて扱いかねた」という視点もまた、重要なポイントの一つでした。

天下が秀吉のものになって、
大軍団が守ってくれるから良いのでは?

でもさ、戦って恩賞もらう
軍団の人は、平和になったら「やることがない」のかな?

当時、日本国内が「完全に平和」とは言い切れないものの、「大合戦は一時なくなった」時代でした。

「戦うこと」で生きてきた方々には、軍よりも警察的役割を担ってもらうことも考えられます。

一方で、「戦って恩賞で領土を広げる」発想の方々には、大名も存在していたので、

秀吉様が惣無事令(大名間の戦い禁止)を
出したから、勝手に戦えないしな・・・

しばらく、自分の領土の
内政に励むか・・・

ここで、力が余った方は、開墾などに全力を尽くしても良いのですが、

やっぱり、俺は
戦って恩賞もらいたいな・・・

という不満も出てきました。

信長が兵農分離するまでは、「農民と兼業」だった多くの兵士たち。

それが、兵農分離が進んだ結果「戦うことが専業」の方が大勢登場しました。

豊臣秀吉

「戦いたい」という連中が
まだまだいるのか・・・

豊臣秀吉

我が国は、私が惣無事令出したし、
外国に行くしかないな・・・

こう秀吉が考えた面も、あったのでしょう。

最初、秀吉は朝鮮に「明軍への侵攻の先導役」となることを要求して、蹴られました。

これは、「明国の支配下」であった朝鮮側からの発想としては、当然のことでした。

豊臣秀吉

朝鮮が我が要求を
「蹴った」だと・・・

豊臣秀吉

ならば、ちょうど「戦いたい」連中も
いるし、我が威光を大陸へ知らしめよう!

豊臣秀吉

朝鮮を攻めたら、明軍も
出てくるだろうから、まとめて倒す!

周囲から見れば、秀吉の発想は「異常な大飛躍」でした。

秀吉が「朝鮮を制圧して、明国を制す」発想となった根幹は、

ネルー

日本は中国のよくできる
弟子であったが・・・

と、ネルーが考えたように「日本の方が明国(中国)の下」と見られていたのが影響していました。

豊臣秀吉

我が日本は、「明(中国)の下」でも
「明の弟子」でもないわ!

秀吉の様々な思惑から、一気に大陸へ侵攻したのが秀吉でした。

これらのことをまとめて解答にしましょう。

問4の答え(解答例)

A.豊臣秀吉が天下統一し、平和となった国内では大きな合戦がなくなり、戦いで恩賞を求める将兵の扱いに困ったこと。(最も良い例)

B.豊臣秀吉が、久しぶりに天下を統一し、国内の合戦を禁止したため、合戦目当ての将兵の不満が溜まってしまい、不満の行き先がなくなったこと。(良い例)

C.豊臣秀吉が天下統一して、自分の配下のたくさんの軍団たちが不平を漏らし始めたこと。(悪い例:天下統一から不平の経緯が必要)

D.日本国内の武将や兵士たちが、やることがなくなってしまい、暇になったこと。(悪い例:なぜ「暇になったか」と「扱いかねた」理由が欲しい)

ここで少し簡潔にして、良い例:AとBの例を簡単にすると下記になります。

問4の簡潔な答え(解答例)

A.豊臣秀吉の天下統一で合戦がなくなり、戦いで恩賞を求める将兵の扱いに困ったこと。(最も良い例)

B.豊臣秀吉が天下統一、国内の合戦を禁止し、合戦と恩賞を求める将兵の不満が溜まり積もったこと。(良い例)

「模範解答例」は、もれなく、しっかりと記載された答えが多いです。

小学生である中学受験生は「小学生らしく」書ければ良いでしょう。

模範解答は一例に過ぎないので、まずは色々書いてみましょう。

慣れないうちは模範解答例の真似・丸写しや、「自分で少しアレンジ」でも良いでしょう。

次回は上記リンクです。

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