前回は「「真田信之の真田」の質実剛健な文武学校〜家康に抵抗し続けた真田・「天下の真田」の松代藩・真田幸村の本名「真田信繁」〜」の話でした。
優れた松代藩祖・真田信之:異常に高評価の真田幸村と真田昌幸

戦国ファンの中で、とにかく大人気なのが「真田」です。
「好きな武将」の投票をすれば、おそらく「三位以内は確実」なのが真田幸村です。
真田幸村この幸村は
最強なのだ!
真田幸村の本名は「信繁」であり、「幸村」という名前は江戸期の創作ですが、幸村で通します。
長い間、歴史ファン・戦国ファンを魅了し続けている、コーエー・テクモの「信長の野望」。
コーエー・テクモは、かつて「光栄」という名前でした。
中学高校時代、筆者は光栄の「信長の野望」や「三国志」のシリーズをかなり長時間プレイしました。
少し古いですが、筆者が中学生の頃、大ブームだった「信長の野望 武将風雲録」があります。
| 武将名 | 戦闘力 |
| 上杉謙信 | 100 |
| 真田幸村(信繁) | 97 |
| 武田信玄 | 96 |
| 竹中半兵衛(重治) | 94 |
| 真田昌幸 | 90 |
| 織田信長 | 88 |
| 徳川家康 | 88 |
| 北条氏康 | 85 |
| 羽柴秀吉 | 74 |
その中で、著名な武将の戦闘力を挙げたのが、上の表です。
このゲームでは、真田一族がかなり強力であり、戦闘力は真田幸村97、真田昌幸90です。
このゲームをプレイしたことがある方なら分かりますが、「戦闘力90以上」は超強力です。
さらに、「戦闘力96以上」は「別格」の設定がされており、猛烈な強さを持ちます。



この真田幸村は
戦闘力97なのだ!
「信長の野望 武将風雲録」では、別格の「戦闘力96以上」は上杉謙信、真田幸村、武田信玄のみです。
特殊シナリオで登場する猿飛佐助は戦闘力98ですが、忍者で例外的存在なので除外します。
これら三人のうち一人でも騎馬隊を率いて敵陣に乗り込むと、面白いように敵兵が減少してゆきます。
そして、上杉謙信・武田信玄亡き後、「戦闘力96以上」は真田幸村のみとなります。



この真田幸村の
槍を受けてみよ!
「信長の野望 武将風雲録」に限らず、どの信長の野望や、他の天下統一などのゲームでも、



この真田幸村の戦闘能力は
随一なのだ!
真田幸村の戦闘能力は、異常なほど高く設定されており、



この真田昌幸の知略と戦闘力も
凄まじいですぞ!
真田昌幸は幸村ほどでなくても、かなり高い戦闘力であり、抜群の知謀力を持ちます。
とにかく、判官贔屓もあり、真田一族は異様なほど強い設定です。



父・昌幸、弟・幸村よりも
少し地味ですが・・・



この真田信之が、
松代真田藩の藩祖です!
真田幸村よりもだいぶ知名度が落ちますが、兄・真田信之(信幸)もまた優れた武将でした。
「真田流」文武学校と藩校の面影:三度も家康に煮湯飲ませた真田


一般的に「真田」というと、「真田信之を除外した」上の三名の「真田三代」を指します。





真田には、二度も
煮湯を飲まされた・・・
1585年の「第一次上田合戦」、1600年の「第二次上田合戦」で徳川軍に大打撃を与えた真田。



真田昌幸、幸村親子は
切腹だ!



家康様、ここは、
この信幸の顔に免じて、ご勘弁を!
ここで「信幸」の名前であった真田信幸は、必死に父と弟の助命嘆願をしました。



まあ、真田信幸は
真面目だから、許してやろう・・・
信幸の妻の父・本多忠勝の力もあり、助命に成功した信幸。
真田信幸は、昌幸と同じ「幸」の字を懸念して、「信之」に名前を変えました。



もはや、二度と真田には
悩まされんだろう・・・
真田に二度も「煮湯」それも、「沸騰したままの煮湯」を飲まされた家康。
昌幸・幸村親子を、紀州・九度山に放逐して安心した家康。



やっと、真田が
消えた・・・
ところが、「二度あることは三度ある」のが、世の常でした。





家康っ!
見参っ!
徳川家康が、豊臣秀頼を滅亡させるために、引き起こした大坂冬の陣・夏の陣。



ま、また、
真田かっ!!!
そして、二度ならず三度目には、「沸騰を超えた熱すぎる煮湯」を飲まされた家康。
真田幸村の「最後の突撃」をまともに喰らった家康は、



こうなっては、
ワシも戦国武将だ・・・



首を取られる前に、
切腹する・・・
一時は「切腹する」と言い出した、という「伝説」があります。
ただし、この「伝説」は、江戸時代の「反徳川」色の「講談的要素」が強いです。



最後の最後に、
残念だ・・・
最終的には、「多勢に無勢」で、真田幸村は戦死しました。



弟・幸村は、とことん
徳川と戦った・・・



私は徳川と和するが、
真田の伝統を後世へ残す・・・
「大坂の陣の真田」を考えたら、「取り潰し」の可能性もあった真田・松代藩。
藩祖・真田信之の尽力があり、その後の藩主も英邁な人物が続きました。
そして、「真田らしさ」を残しながら、松代藩は江戸時代を生き抜きました。
藩校を作ったのは不自然なほど遅い時代であり、幕末の1855年でした。


「天下の真田」の武芸と学問を教授する文武学校を、幕末1855年に設立した松代藩。
この「文武学校」という名称もまた、少し平凡です。
薩摩の造士館、会津の日新館などと比較すると「普通すぎる名前」の文武学校。
「普通」ですが、この文武学校の校舎の雰囲気から、当時の藩校の雰囲気が分かります。


その一方で、現在残されている文武学校の空間は、質実剛健な武士を育てるための空間でした。
優れた「日本の武士」を真田流に育成する空間。
それが、松代の文武学校です。
長野を訪問する機会がある人は、ぜひ文武学校を訪れてください。

