前回は「吉宗の「享保の改革」で大事なこと〜洋学と洋書の解禁+蘭学の大奨励・「学問好き」だった将軍吉宗・「将軍の可能性」と幼い頃からの勉強〜」の話でした。
「内向き思考」だった徳川幕府:島原の乱の極大激震

徳川15代将軍の「ちょうど中央の8代目」である将軍吉宗。
徳川吉宗この吉宗は、
享保の改革を実施したのだ!
徳川吉宗の享保の改革は、中学受験で必須の知識です。
・身分が低い旗本を重役に就ける時のみ役高を増加して、人材登用と財政再建のために足高の制を儲けた。
・政治の公平を期すために、一般の民衆が政治や裁判について意見を自由に投書出来る目安箱を評定所に設置した。
・自ら率先して質素倹約を奨励し、豪華な衣類ではない木綿の着物を着て、鷹狩りや砲術などの学問を学び、旗本や武士の武芸を奨励して、幕臣統制を強化した。
享保の改革と言えば「足高の制+目安箱+質素倹約」の三点セットが多いです。



この吉宗、学問を
強く奨励したのだ!



そして、洋学・洋書を
大幅に解禁したのだ!
今回は、享保の改革で語られることが少ない「洋学・洋書・漢訳洋書の大幅緩和」の話です。
現代では、当然のように洋学でも洋楽でも、何でも手に入れられることができます。
ネットもなく、流通経路も限られた江戸時代は、「洋書を手に入れる」のは困難な点がありました。
ところが、「洋書入手が困難」ではなく、吉宗より前の将軍まで「洋書入手が厳禁」でした。


その大きな理由が、1637年から1638年に勃発した島原の乱でした。
| 幕軍 | キリスト教徒軍 | |
| 兵力 | 124,000名 | 37,000名 |
| 死傷者数 | 8,000名〜 | 全滅 |
天草四郎が率いた反乱軍を、ここでは「キリスト教徒軍」と呼びます。
諸説ありますが、37,000名の反乱軍に対して、3倍以上の幕軍を動員せざるを得なかった徳川幕府。
10万名以上の大動員であり、この兵力は、37年前の関ヶ原の戦いの東軍より多い人数でした。
さらに、キリスト教徒軍は「全滅するまで戦う」異常な軍団でした。





祖父 家康が
天下を制した「関ヶ原」よりも大人数・・・



しかも、相手は名だたる大名が
率いたわけでもなく、農民が主力・・・



キリスト教徒やキリシタンの
力は、強力すぎる・・・



・・・・・
そして、第3代将軍・徳川家光は、思い切った決断を下しました。



我が国は国を
鎖ざす!



もちろん、洋学や
洋書は禁止だ!
こうして、島原の乱の大激震によって、徳川幕府は「内向き思考」となってしまいました。
阿蘭陀本草和解など漢訳洋書奨励した吉宗:洋書厳禁→解禁まで約80年


当時、「鎖国」という言葉はありませんでしたが、一般的に1639年に「鎖国完成」です。
そして、家光の「鎖国完成」から80年余り経過した1720年頃、



やはり、蘭学は
我が国より遥かに進んでいる・・・
当時、日本は欧米とは公式にはオランダとしか国交を持っていませんでした。
そのため、日本にとっては「欧州の言語=オランダ語」であり「洋学=蘭学」だったのでした。
この傾向は、幕末まで続きます。


蘭学を学ぶ機関・私塾の中では、適塾(適々斎塾)が最も有名です。



蘭学・漢訳洋書を
解禁して学ぼう!
そして、家光の「洋書厳禁」から約80年後に、吉宗は「洋書解禁」に踏み切りました。
今年2025年は「終戦(敗戦)後80年」であり、「洋書厳禁から解禁の80年」とほぼ同じ期間です。


そして、「学問好き」だった将軍吉宗は、漢訳洋書を奨励し、自らも学びました。



なになに、これが蘭学の
科学技術の話か・・・



う〜む、
面白いのう・・・





これは、「阿蘭陀本草和解」で、
オランダの植物学か・・・



植物を研究する学問は
農作物が増えそうだのう・・・





学問は楽しいだけでなく、
実利もあるのだ!



皆、もっともっと
漢訳洋書から学ぶのだ!
こうして、1720年以降、国内では蘭学・漢訳洋書が大いに広がりました。
そして、「内向き思考」だった日本国民は鎖国が続く中、「少し外向き思考」になりました。
筆者は、吉宗の政治の中で、この「漢訳洋書・洋学・洋書解禁」が最も重要と考えます。
そして、この「漢訳洋書・洋学・洋書解禁」によって、日本という国家が大きく開きました。
仮に、吉宗が「漢訳洋書・洋学・洋書解禁」を行わなかったら、幕末の様相は大きく変わっていたでしょう。

