前回は「徳川吉宗の「享保の改革」とは何か?〜「人物」と「時代の節目」が大事な歴史の学び・歴代徳川将軍と時代・直前期は「丸暗記より理解」〜」の話でした。
「学問好き」だった将軍吉宗:「将軍の可能性」と幼い頃からの勉強

前回は、徳川幕府第8代将軍・徳川吉宗の享保の改革の問題を考えました。
徳川吉宗が実施した政治・政策の中で、特徴あること3つを箇条書きで説明して下さい。
中学受験生にとって「享保の改革」という単語は常識ですが、内容を理解するのが大事です。
A:・足高の制。
・目安箱。
・質素倹約。(1点)
B:・多くの人を集めるため、足高の制を設けた。
・目安箱を置いて、人の意見を聞いた。
・自分も質素倹約を行い、無駄を省いて、武士の統制を強化した。(2〜3点)
C:・人材登用と財政再建の目的で、足高の制を設けた。
・一般の人々が政治について自由に意見を言えるように、目安箱を置いた。
・自ら質素倹約を率先遂行し、旗本に勤勉と武芸を奨励して幕臣の士気を鼓舞した。(3点)
解答例はいくつか考えられますが、「目安箱」という単語ではなく「何のためか」が大事です。
・身分が低い旗本を重役に就ける時のみ役高を増加して、人材登用と財政再建のために足高の制を儲けた。
・政治の公平を期すために、一般の民衆が政治や裁判について意見を自由に投書出来る目安箱を評定所に設置した。
・自ら率先して質素倹約を奨励し、豪華な衣類ではない木綿の着物を着て、鷹狩りや砲術などの学問を学び、旗本や武士の武芸を奨励して、幕臣統制を強化した。
模範解答例では、「足高の制・目安箱・質素倹約」の三点セットを題材にしました。
徳川吉宗享保の改革は、
「足高の制・目安箱・質素倹約」だけではないぞ!



この吉宗、学問を
強く奨励したのだ!



旗本・幕臣のみならず、
全ての民衆にも学問を強く奨励したのだ!
徳川幕府の将軍たちは様々な人物がおり、政治力や人物像など「皆それぞれ」です。
「それぞれ」ですが、皆が幼い頃から「将軍になる可能性」を持って教育された人物たちでした。
そのため、原則として「学問が好き」である傾向が強いのが徳川将軍たちでした。



小さい頃から学問を続けて
きたから、今でも学問は大好きだ!
吉宗自身も学問が好きであり、好奇心旺盛で自分自身もずっと勉強し続けた将軍でした。
吉宗の「享保の改革」で大事なこと:洋学と洋書の解禁+蘭学の大奨励


そして、「学問好き」で学問を大いに奨励した吉宗は、



みんな、もっともっと
学問しよう!
このように「学問奨励」の掛け声を挙げただけでなく、「将軍だから出来ること」を実行しました。



禁じられている
洋学と洋書を解禁する!
吉宗は、江戸時代のこの時期まで「禁止されていた洋学と洋書」を解禁したのでした。
そして、上の写真のような「阿蘭陀本草和解」などの学問を奨励しました。
「阿蘭陀本草和解」は、「阿蘭陀=オランダ」であり、「蘭語の書籍」を日本語(漢語)にした書籍です。





キリシタンの勢力は
排除しなければ・・・



我が国は、キリシタンや
キリスト教の国に潰されてしまう・・・



キリスト教禁止!
そして、鎖国とする!



そして、危険な洋学と洋書は
禁止!
「キリスト教禁止」と「鎖国」を実行した第3代将軍・徳川家光。
鎖国に関する、記述の問題の話を上記リンクでご紹介しています。
実は「鎖国」と言う言葉は、江戸後期くらいに登場した言葉で、家光は「鎖国」を使用していません。
「国を鎖ざす」と言う、世界史上も「極めて異例な政策」を続けた徳川幕府。
ここで、「洋学と洋書も禁止」した点に、徳川家光の徹底ぶりが分かります。



キリスト教禁止では
足りない・・・



西洋の思想をまとめた
洋学や洋書は危険だ!



だから、洋学も洋書も
厳禁だ!
当時、洋学といえば蘭学でした。
1.長崎・出島:徳川幕府の公式窓口(オランダ・中国)
2.対馬・宗氏:徳川幕府が公認・間接的関与(朝鮮)
3.蝦夷・松前氏:徳川幕府が半公認・間接的関与(蝦夷及びアイヌ)
4.薩摩・島津氏:徳川幕府は非公認・事実上黙認(琉球・中国・東南アジア)
それは、幕府の公式窓口・長崎の出島で、西洋ではオランダのみ付き合っていたからです。
そして、現代と異なり、「蘭学を読める人」は極めて限られていた江戸時代。
今は、英語でもフランス語でも何語でも「テキストや書籍はいくらでもある」時代です。
You Tubeなどで、様々な言語を学ぶことも可能です。
ところが、江戸時代は、そもそも「外国語を理解する」人物は極めて少数でした。
そのため、「オランダ語で書かれた洋書」があったところで、



これって、
何語?



なになに、
オランダ語?



全然
分からないね・・・・
オランダ語で書かれた洋書は、極めて限られた人物のみが「多少は理解できる」程度でした。
この点では、「洋書があっても、ほとんどの人が理解できない」から害はなさそうです。
実は、当時、洋書は「ある程度理解可能な方法」がありました。
それは、当時ある程度「漢学の素養」がある人が多かった、「漢文に翻訳された洋書」です。
これらを「漢訳洋書(かんやくようしょ)」と呼びます。



もちろん、漢訳洋書も
厳禁だ!
「漢訳洋書を禁止」した家光に対して、



漢訳洋書を
解禁して、皆で学ぼう!
「漢訳洋書を解禁」したのが吉宗でした。
筆者は、この「漢訳洋書の解禁と洋学の奨励」が、吉宗の政治(享保の改革)で最も良い点と考えます。
・実利実学を奨励し、漢訳洋書、洋書、洋学の禁止を緩和して、様々な人物に蘭学を学ぶことを奨励した。
・学者に命じて「六諭衍義(りくゆえんぎ)」などの難解な書物を、易しい仮名混じり文に直して、広く寺子屋などに配布して、一般の民衆にも学問を奨励した。
模範解答例の「六諭衍義(りくゆえんぎ)」は、大学受験生向けの知識です。
中学受験生は、「様々な漢文の要所が解禁された」という理解が良いでしょう。



皆でこれを
読もうぞ!
吉宗の良い点は、「良い本を易しくして、寺子屋などに配布した」ことです。
民衆にとって、まさに「将軍の模範」であったのが吉宗でした。
「享保の改革の一部」として、この「学問奨励+洋書解禁」を知っておくと良いでしょう。
「漢訳洋書、洋書、洋学の解禁」によって、日本で洋学(蘭学)が徐々に浸透しました。
この流れが、杉田玄白らの「解体新書」の源流となり、やがて幕末に至ります。


