前回は「ポツダム宣言「拒絶」と米軍の爆撃・砲撃強化〜二十四時間間断ない波状攻撃・鈴木侍従長の脳裏に焼きついた「銃撃」・「二・二六」標的の大物たちの運命〜」の話でした。
安倍源基「昭和動乱の真相」が明らかにするポツダム宣言

1945年7月26日のポツダム宣言に対して、2日後の7月28日、鈴木首相は、
鈴木貫太郎ポツダム宣言に関しては、
これを黙殺する。



あくまで戦争遂行に
邁進する。
このように「黙殺+戦争邁進」と発言した、と伝えられています。





あるいは情報局で不用意にこれを
付記したのかも分からぬ。



その真相は不明であるが、
およそ首相の真意とは程遠い談話であった。
この鈴木首相の談話は、昭和天皇最側近の一人、藤田侍従長は「真相不明」と明言しています。


その一方で、鈴木首相自身が、敗戦翌年に述べている「終戦の表情」において、



この宣言は重視する
要なきものと思う。
こう言った、と記録しています。
これらの大きく異なる発言に関して、もう少し調べてみましょう。


安倍源基(あべ げんき)が著した「昭和動乱の真相」には、この頃の話が詳細に記録されています。
「源基」という名前は極めて稀で、筆者は歴史上或いは人生において、この名前の人を他に知りません。


当時、鈴木内閣において内務大臣であった安倍源基もまた、当時の真相を知る人物の一人です。
| 名前 | 生年 | 役職 |
| 鈴木貫太郎 | 1868年 | 内閣総理大臣 |
| 米内光政 | 1880年 | 海軍大臣 |
| 梅津美治郎 | 1882年 | 参謀総長(大本営) |
| 東郷茂徳 | 1882年 | 外務大臣 |
| 豊田副武 | 1885年 | 軍令部総長(大本営) |
| 阿南惟幾 | 1887年 | 陸軍大臣 |
| 安倍源基 | 1894年 | 内務大臣 |
| 迫水久常 | 1902年 | 内閣書記官長 |
鈴木内閣の中では、比較的若手であった安倍内相は、縦横無尽に働いていました。
現代、内務大臣は日本においては廃止されました。
その一方、諸外国には内務大臣に相当する長官等がいることが多いです。
「外務」省に対する「内務」省は「国内の主要事項」を取り扱う強力な省庁でした。
特に、戦前は強力な権限を有していた警察を傘下に収める内務大臣は、極めて重要な立場でした。
戦後は大蔵大臣の立場が強くなりましたが、戦前は大蔵大臣の立場はそれほど強くありませんでした。


明治初期、「事実上の首相」であった大久保利通もまた、内務卿(内務大臣)でした。
大久保の頃の内務卿は、戦時中の内務大臣よりも更に巨大な権限を握っていました。
大久保は内務卿に就任し、明治政府の巨大な権限を握りました。
この事実からも、内務卿・内務大臣の重要性が分かります。
警察を所管する安倍内相は、かなり多くの情報を握っていました。
鈴木内閣「ノーコメント+発表小さく」と決定:廣田とマリクの交渉


「昭和動乱の真相」は、1977年に出版されました。
「真相」を語るだけに、戦後ある程度の時間が経過してから、出版されたと考えます。
ポツダム宣言発令の部分から、「昭和動乱の真相」を読んでみましょう。



翌七月二十七日、わが外務省は
ポツダム宣言の内容を知ったが・・・



同日の定例閣議で東郷外相から
報告があって、どのように対処するかが論議された。



この時外相は、初めて廣田・マリク会談以来の
対ソ交渉の経過を簡単に報告し・・・


「廣田」とは、廣田弘毅 元内閣総理大臣のことです。


「マリク」とは、当時のヤコフ・マリク・ソ連駐日大使のことです。
ソ連に「降伏の仲介役」を頼んでいた日本政府は、廣田元首相がマリク大使に接触していました。
この重大な事実を、閣僚に対して東郷外相は、「ポツダム宣言後初めて」報告しました。



最近の国際情勢を述べるとともに、
ポツダム宣言を解説し・・・



今しばらくソ連の出方を
見た上で、日本の態度を決定すべきである。



と
主張した。



一同外相の意見に同意したが、
新聞発表の形式と内容については・・・



相当議論が
あった。
鈴木首相含め閣僚一同「しばらく様子見る」に同意しましたが、発表の方法が大問題でした。



新聞発表の形式と内容については
相当議論があった。
なにか発表しなければなりませんが、「相当議論があった」ことを、安倍内相は明らかにしています。



結局政府としては、
次のように決定した。



①宣言に対しては何らの
意思表示をしない(ノーコメント)



②新聞については、なるべく小さく取り扱う
よう情報局で指導すること
「ポツダムへの対応」は、「ノーコメント+発表を小さく」と決定した政府。
現代と異なり言論統制が厳しかった当時は、新聞などのメディアに対し、政府・情報局が指導していました。
指導に従わなかった場合は、その新聞・メディアは弾圧されるため、新聞・メディアは指導に従っていました。
こうして、鈴木総理+全閣僚である鈴木内閣一同の共通の認識は、まとまりました。
この流れが事実であったならば、「黙殺+戦争邁進」という表現になるはずがないようにも感じます。
次回も、「昭和動乱の真相」を読み進めてゆきます。

