前回は「ポツダム宣言から敗戦に至る真実の歴史〜「無条件降伏」の真実・「大東亜共栄圏」目指した大日本帝国・かなり多かった戦前の日本の人口〜」の話でした。
迫水久常「大日本帝国最後の四か月」が明らかにする降伏への過程

1945年7月26日、ポツダム宣言が発令され、19日後の8月14日、大日本帝国は受諾を決めました。
そして、翌8月15日に、昭和天皇による「玉音放送」となりました。
この「日本の未来を決定した20日」に関しては、ほとんど全ての日本人は詳細を知りません。
この歴史に関しては、実に様々な書籍などがあります。
これらの歴史に関する書籍は、過去の資料・情報を元にした「二次資料」であることがあります。
一次資料:ある出来事と同時代、少し後の時期に作成され、当事者・事情をよく知っている者が作成した文書・絵巻物等。
二次資料:ある出来事からかなり後の時期に作成され、事情をどこまで知っているか不明な人物が作成した文書・絵巻物等。明らかな誤りや脚色が多数ある傾向あり。
歴史は、当事者、または事情をよく知っている者が作成する資料に依拠するのが本来の姿です。
一次資料と二次資料に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
そこで、筆者は、「当時を知る人物が書いた一次資料」を元に、「ポツダムから降伏の歴史」をご紹介します。
主として中高生を対象として、事実関係を説明しながらご紹介します。
そして、小学生にも分かりやすいように、平易に説明したいと思います。
適宜、筆者の注釈・意見を加えますが、出来るだけ「透明感」を持ってご紹介します。

まずは、迫水久常が著した「大日本帝国最後の四か月」を元に、当時の状況を描写します。
当時の状況を、「真相を知る者」が書いた著作はいくつかあります。
筆者は、それらの書籍を多数読みましたが、中でも「大日本帝国最後の四か月」は極めて上質な書籍です。
他の人物の一次資料・文献も参照にしながら、当時の状況を明瞭に、ご紹介します。

敗戦当時、内閣書記官長(内閣官房長官)であった迫水久常(さこみず ひさつね)。
1902年に生まれ、東京帝国大学(東大)を卒業後、迫水は大蔵省に入省しました。
かなり優れた人物であった迫水は、様々な政治家に目をつけられ、抜擢を受け続けました。
鈴木貫太郎内閣において、内閣書記官長に就任した迫水は、1945年は43歳になる年でした。
77歳の大ベテラン・鈴木首相を、43歳の若き迫水書記長が補佐していました。
以下、大日本帝国政府を、日本政府と呼びます。
スターリン書記長とモロトフ外相頼った日本:「ムダだった」対ソ外交

大日本帝国最後の四か月(1945年)7月26日、
運命のポツダム宣言が発表された。



日本政府は、それでも望みを捨てないで、
佐藤大使をどうにかしてポツダムへ送り込み・・・



スターリンまたはモロトフに
直接会わせて・・・



ソ連側の色良い返事をもらおうと
したがムダだった。
当時、日本政府がソ連政府を頼り切っていた事実を説明しています。
そして、その結果、



ソ連側の色良い返事をもらおうと
したがムダだった。
「ムダだった」と切り捨てた迫水。
「無駄」ではなく「ムダ」と表現している点に、迫水の気持ちが表れていると考えます。


当時、ソビエト連邦の帝王のような存在であったスターリンは、かなり強力な権力者でした。


「モロトフ」とは、当時のモロトフ・ソ連外相です。
「モロトフ」はペンネームであり、本名はヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・スクリャービンです。
| 人物名 | 職務 | 生年 |
| 鈴木貫太郎 | 日本・総理大臣 | 1868年 |
| スターリン | ソ連・書記長 | 1878年 |
| モロトフ | ソ連・外務大臣 | 1890年 |
| 迫水久常 | 日本・内閣書記官長 | 1902年 |


「佐藤大使」とは、当時ソ連大使であった佐藤尚武・ソ連大使です。
実は、「スターリン」もまたペンネームで、ロシア語で「鋼鉄の人」の意味です。
いずれにしても、「ソ連を大いに頼っていたのに、全く裏切られる」ことになる日本。



連合国には、
各国各様の立場があった。



ポツダムでの会議は、
七月の十七日から始まった。



イギリスで総選挙が行われたため、
二十四日は一旦休会となり・・・



チャーチル及びアトリーの
二人は、翌二十五日帰国した。



二十六日、トルーマン、チャーチル及び蒋介石の名前で
三国の共同宣言が発表された。



その全文は
次の通りであった。
迫水は、ポツダム宣言発令に至るプロセスを、詳細に描いています。
そして、運命のポツダム宣言が発表されました。
宣言
合衆国、中国および連合王国の政府首脳による宣言
一 我々、合衆国大統領と中華民国国民政府主席およびグレートブリテン首相は、我々の数億の国民を代表して協議を行い、日本にこの戦争を終結する機会を与えることで意見が一致した。
二 合衆国と大英帝国および中国の巨大な陸海空軍は、西方から自国の陸空軍による数倍の増強を受け、日本に対して最後の一撃を与える態勢を整えた。この軍事力は、日本が抵抗を停止するまで、対日戦争を遂行する全ての連合国の決意により支持され、また鼓舞されるものである。
三 覚醒した世界の自由な人々の力に対するドイツによる無益かつ無意味な抵抗の結果は、日本国民に対する極めて明白な先例である。現在、日本に対し集結しつつある力は、ナチスの抵抗に対し適用され、必然的に全ドイツ国民の土地、産業および生活様式に荒廃をもたらしたそれとは比較できないほど強大である。我々の軍事力は我々の決意のもとで最大限に行使され、それは日本国軍隊の不可避かつ完全な壊滅と、同じく不可避的な日本国本土の完全な荒廃を意味することになる。
四 愚かな打算により日本帝国を消滅の寸前まで陥れた身勝手で軍国主義的な助言者らに支配され続けるのか、それとも理性による道を歩むのかを、日本が決定すべき時が来たのである。
五 我々の条件は次のとおりである。我々は、これらの条件を逸脱することはない。これらに代わる条件は存在しない。我々は、遅延を許容しない。
六 日本国民を騙して道を誤らせ、世界征服に乗り出させた者たちの権力および勢力は、永久に除去されなければならない。無責任な軍国主義が世界より駆逐されるのでなければ、平和と安全および正義の新秩序が生じ得ないことを、我々は主張するからである。
七 そのような新秩序が建設され、かつ日本の戦争遂行能力が破壊されたことについて確証を持つことができるまでは、連合国が指定する日本国領域内の諸地点は、占領されなければならない。我々がここで述べる基本的な目的の達成を確実とするためである。
八 カイロ宣言の条項は履行されなければならず、また、日本の主権は本州、北海道、九州および四国、ならびに我々の決定する諸小島に限定されなければならない。
九 日本国軍隊は、武装を完全に解除された後、各自の家庭に復帰して平和的かつ生産的な生活を営む機会を与えられなければならない。
十 我々は日本人を民族として奴隷化したり、国民として滅亡させる意図を有さないが、我々の捕虜に対して虐待を行った者を含む一切の戦争犯罪人には、厳格な処罰が下されなければならない。日本政府は、日本国民の間における民主主義指向の再生および強化に対する一切の障害を除去しなければならない。言論、宗教および思想の自由、ならびに基本的人権の尊重は確立されなければならない。
十一 日本は、自国の経済を支え、正当な現物賠償の強制取立てを可能とするような産業の維持を許される。ただし、戦争のための再軍備を行うことを可能とするような産業の維持は許されない。この目的のため、原材料の統制とは異なる形で、原材料の入手を許されるものとする。日本は、将来的には世界貿易関係への参加を許されるものとする。
十二 これらの目的が達成され、日本国民の自由意思に基づき、平和指向かつ責任ある政府が樹立された場合は、連合国の占領軍は、直ちに日本から撤収するものとする。
十三 我々は、日本政府に対して、直ちに全日本軍隊の無条件降伏を宣言することを要求し、その行動における同政府の誠意について、適切かつ充分な保証を提供するよう要求する。日本にとって他の選択肢は、迅速かつ完全な破壊のみである。
ポツダムにて、1945年7月26日
ハリー・トルーマン
ウィンストン・チャーチル
中華民国政府主席
ここで注目すべきは、ポツダム宣言における「中華民国政府主席」の記載です。


この点は、迫水は明確に「中華民国政府主=蒋介石」としています。



中華民国政府主席とは、
即ち、蒋介石だ・・・
当時の中国は、蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党が争っていた状況でした。
ポツダム宣言の「中華民国政府主席」は、このことの配慮があると思われます。
或いは、「蒋介石自身の日本への配慮」だったかもしれません。
この辺りは不明です。
ポツダム宣言は、確かに当時、事実上「トルーマン、チャーチル及び蒋介石」から出された通告でした。


