前回は「「大きな岩の塊」のような御籠島〜地層の断面と海側から見た佐田岬・佐田岬の「すぐそこ」にある島・畜養池で一体化〜」の話でした。
御籠島「洞窟式砲台跡」へ:観光スポット「お台場」の名前の由来

「日本一細長い半島」である佐田岬半島に隣接する御籠島に向かいました。
佐田岬半島とは「別の島」である御籠島は、上の地図のように畜養池で接続されています。

そして、四国最西島である御籠島に、佐田岬から徒歩5分ほどで到着しました。
風光明媚な御籠島には、大事な「第二次世界大戦の爪痕」が残されています。

巨大な岩のような御籠島の側面に、二つの穴があります。
穴の周囲にはコンクリートで固められた壁と天井があり、手すりもあります。
これは、明らかに「自然のもの」ではなく「人間が構築したもの」です。

この穴は「洞窟式砲台」の跡です。
本来、砲台は外部から敵が攻め込んでくることを想定する位置に設置します。

現代、様々な観光スポットがある東京の「お台場」と呼ばれる地域があります。
この「お台場」という不思議な名称は、実はもともと「砲台を設置した場」でした。
そして、「台場」という名称に「お(御)」をつけて、日本的な呼び方で「お台場」となったのでした。
首都東京を護るために、お台場周辺に砲台が築造され、実際に多数の大砲が設置されていました。
フジテレビなどがある「お台場」より南方の場所に、砲台が置かれていた「台場」は現存します。
現在、台場において、首都東京を防衛する機能がどの程度確保されているかは不明です。

早速、御籠島に築かれた「洞窟式砲台跡」に向かいました。
上の写真の通り、綺麗に整備されており、当時一生懸命軍部が建造したまま残っています。

上の砲台はレプリカですが、洞窟式砲台の先端に、戦時中は本物の砲台が置かれました。

ここで不思議に感じることは、御籠島の「砲台=台場」は、東京の台場よりもだいぶ内部にあることです。
観光スポットである「お台場」よりも、だいぶ南の東京湾入り口付近に様々な台場が築かれました。
そのため、東京に攻め込んでくる外敵を倒すための位置として、ちょうど良い場所にあります。
対して、御籠島の台場は瀬戸内海に近く、ここまで敵に攻め込まれては大変な事態となります。
実は、この御籠島の台場は、戦争末期に想定された「本土決戦」に合わせて築造された台場です。
軍部・大本営が目論んだ最終決戦「本土決戦」:「内地」での最後の抵抗

1945年、第二次世界大戦がいよいよ大詰めとなり、日独中心の枢軸国の敗勢はいよいよ濃厚でした。
誰が見ても、連合軍の勝利に終わることが目前となっていました。
1945年4月30日には、ヒトラーが自殺してドイツが無条件降伏します。
この頃、大日本帝国では、「最後の最後の本土決戦」の準備が行われていました。
阿南惟幾我が帝国陸軍は
本土決戦の準備がある!



その通り!
最後の最後、本土で戦うのだ!



海軍も最後の
渾身の力を振り絞りましょう!



本土決戦など、
やったら、我が国は滅亡する!
当時の軍部・大本営の最高首脳部であった陸海軍両大臣・参謀総長・軍令部総長の四名。
この四人のメンバーのうち、三人までが「本土決戦賛成派」でした。
ただ一人、冷静な米内(よない)海軍大臣のみが、軍部大幹部の中で「本土決戦」猛反対でした。



最後の最後に、
連合軍に痛撃を与え・・・



我が国に少しでも
有利な状況で講和するのだ!
もちろん、「逆転勝利が不可能であること」は皆承知しており、「少しでも敵に打撃を」が本土決戦でした。



我が国土を灰燼にし、
我が国民を多数殺すのか!



その前に、適切な交渉によって
降伏するべきだ!



国体は大丈夫なのか?
陸軍は最後まで徹底的に戦うのみ!



とにかく、本土決戦の
準備は進めるのだ!
このように、軍部・大本営では「本土決戦」に向けて、詳細な計画と準備を進めました。


その「本土決戦の準備」の痕跡の一つが、ここ御籠島の洞窟式砲台跡です。


本土決戦が行われる場合、連合軍は九州から攻め込んでくることが想定されました。
同時に、首都東京への侵攻も予期されました。
九州が敵(主に米国)の地に落ち、四国・中国地方に攻め込んでくることも想定されました。
その時、この御籠島砲台が、連合軍に対して「火を吹く」戦略でした。


かつて、海外に膨大な領土を有した大日本帝国では、現在の日本列島を「内地(ないち)」と呼びました。
いわば「内地」での最後の抵抗が、「本土決戦」構想でした。


日本及び日本人にとって「幸いなこと」に、本土決戦が起こる前に、敗戦(終戦)に至りました。
そして、今年2025年は、敗戦(終戦)後ちょうど80年の節目の年です。
こうした歴史を振り返る機会を持つことは、極めて大事なことだと考えます。

