私塾設立を思い立った山川捨松〜明治五年の学制と学校教育・「お見合い」が普通だった昭和初期までの結婚・米国と日本の違い〜|山川捨松19・人物像・エピソード

前回は「優秀な成績で米大学卒業した山川捨松〜当時の結婚に対する認識・「会津藩の精神」を受け継いだ捨松・凄惨極めた会津戦争〜」の話でした。

山川(大山)捨松(Wikipedia)
目次

「お見合い」が普通だった昭和初期までの結婚:米国と日本の違い

山川捨松:ヴァッサー大学在学中(Wikipedia)

11歳で米国に留学した山川捨松(咲子)。

もともと「咲子」という可愛らしい名前でしたが、落胆した母のえんは、

えん

これから、ずいぶん長い間
メリケン(米国)に行くのね・・・

えん

明治政府から派遣されるのは
大変光栄なことだけど・・・

えん

帰国するのは、
20歳すぎるだろうから・・・

えん

婚期を逃す
可能性が高いわね・・・

えん

てたつもりで、
待つ()わ・・・

山川捨松

・・・・・

山川捨松

一生懸命、
頑張って勉強してくるわ!

「咲子」から「捨松」に名前が変わり、米国で猛勉強しました。

山川捨松

大変なことになってしまった
会津の皆さんのためにも・・・

山川捨松

私が「会津」の代表として、
頑張って勉強するしかない!

1882年にヴァッサー大学卒業の際は、学年3位の成績で卒業して帰国した捨松。

素晴らしい経歴を持つ素敵な女性となっていましたが、22歳の捨松に対して、当時は、

明治初期の日本人A

素晴らしいことだけど、
20歳過ぎるとね・・・

当時は、女性は「10代で結婚する」という社会通念が日本で根強くありました。

現在から考えると、かなり歪な社会通念でした。

明治初期の日本人A

別に女性は
勉強しなくても良いし・・・

このような「ちょっと」と言うより「凍えてしまうほど冷たい」空気の中、

山川捨松

アメリカなら、
こういう年齢の偏見は少ないけど・・・

人生の大半を米国で過ごした捨松は、「米国流の発想」となっていました。

進歩的だった米国の雰囲気に対して、不自然な社会通念が強い日本の雰囲気に馴染めない捨松。

当時の日本人S

山川さん、この人が
結婚相手ではどう?

当時、恋愛結婚は少なく、見合い結婚がほとんどだったのが当時の日本でした。

新教育紀行
高野(山本)五十六少尉(Wikipedia)

1860年生まれの捨松より、24年後に生まれた山本五十六もまた、見合い結婚でした。

高野(山本)五十六

見合いで素敵な
女性と結婚しました。

明治から昭和初期の時代、日本における結婚は「お見合いが普通だった」と言って良いでしょう。

捨松の周囲の人は、当然のように「お見合い」を進めました。

山川捨松

・・・
いえ、ちょっと・・・

山川捨松

気が乗らないので、
結構です・・・

当時の日本人S

それじゃ、
こちらの人は?

山川捨松

いえ・・・
ちょっと今やりたいことが・・・

周囲の「お見合いしたら」という強い要請に対して、頑なな姿勢をとり続けた捨松。

私塾設立を思い立った山川捨松:明治五年の学制と学校教育

新教育紀行
鹿鳴館(Wikipedia)

捨松が帰国した頃は、まだまだ「欧化主義」が強かった日本。

捨松が帰国した1882年の翌年1883年に完成した鹿鳴館。

鹿鳴館では、欧米風のダンスパーティが連日の様に開催されました。

いわば、日本全体が「欧米になること」を望んでいた雰囲気の中、

山川捨松

私は、米国で
学んだことを活かしたい!

米国で一生懸命学んだ捨松は、「学んだことを活かしたい」と考えました。

日本人女性で、初めて米国の大学の学士号を取得した捨松。

しかも、頑張りに頑張って、3位の優等の成績で卒業した捨松。

頑張って学んだ捨松にとって「学問を活かしたい」と考えるのは、当然の成り行きでした。

明治の頃は、家庭において夫と妻では夫の方がはるかに強い力を持っていた時代でした。

女性は結婚すると「夫の家に入る」という考え方が根強かった、昭和中期の時代までの日本。

現在では、この「家に入る」という概念は、かなり薄まりましたが、

山川捨松

ここで、結婚したら、
学んだ学問が活かせない・・・

結婚した後は「夫次第」であった妻となる女性にとって、結婚はかなり拘束力の強いものでした。

山川捨松

そうだ・・・
若い子達に英語などを教えたいな・・・

勉強家だった捨松は、「勉強すること」の意義を強く感じていました。

山川捨松

私の私塾を
作って、教えたい・・・

そこで、江戸時代に全国各地にあった私塾を作ることを考えた捨松。

明治政府

明治政府は、
学校制度を設立し、推進します!

明治時代になり、猛烈な勢いで様々な改革を進めた明治政府。

まさに「江戸時代とは違う世の中」に急速に変化していました。

江戸時代末期までは、日本の教育は各藩の藩校や私塾などで行われていました。

各藩の考え方によって、藩が運営していた藩校の教育内容は様々でした。

私塾は、「読み書き算盤」を教授する個人が運営していました。

ほとんどの私塾は「普通に学ぶ」体制でしたが、教授方法は「教える人のカラー」が強い傾向がありました。

新教育紀行
思想家 教育家 吉田松陰(Wikipedia)
吉田松陰

実行するこそが
大事なのだ!

ちょっと極端な発想だった吉田松陰の松下村塾は、まさに「松陰塾」でした。

吉田松陰の雰囲気・人格・カラーが、思い切り滲み出た教育を行っていたのが松下村塾でした。

このように当時バラバラだった教育に対して、明治五年(1872年)に明治政府は、

明治政府

学制という法制度によって
統一された学校教育をつくり・・・

明治政府

わが国の子どもたちが
学ぶ環境を整備します!

「バラバラを統合」する学制を公布し、主に小学校の整備を急拡大しました。

明治政府

藩校や私塾は
廃止して、統一された教育を行います!

そして、バラバラだった教育に対して、「統一された教育」が推進されました。

山川捨松

私の私塾で、
色々な子どもに教えたい!

この空気の中、新たな私塾設立に燃える捨松でした。

新教育紀行

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