前回は「アジアにおける日本の立ち位置〜「アジアの帝王」として君臨した中国・長い歴史における日本と中国・唐と宋とモンゴル帝国から現代中国へ〜」の話でした。
アジアから欧州に広がる広大なユーラシア大陸

13世紀頃に、猛烈な勢いで世界を暴れ回り、超巨大国家となったモンゴル帝国・元。
名称の通り、モンゴル帝国は「モンゴル」であり、いわゆる「中国」とは別の国家です。
有史以来、ずっと中国の圧力と圧迫を受け続けてきたのが、日本及び周辺国家でした。

インド初代首相であるネルーの視点から見れば、日本と中国は、
ネルー日本は中国のよくできる
弟子であったが・・・
「日本は中国の弟子」という認識でした。



日本は中国から
自分のやり方で取り入れ・・・



都合の良いように
つくりかえた・・・
ネルーの視点から見れば、日本は「ずっと受け身の姿勢」だったようです。
ネルーの視点に関する、武蔵中学の入試問題の話を、上記リンクでご紹介しています。
この視点に対しては様々な意見がありますが、「概ね正しい」と筆者は考えます。
アジアの一角である中国大陸は、中東から欧州にまで広がる広大すぎる陸地があります。
そして、その陸地によって、古来から様々な文明や文化の交流が生まれました。
異質なモンゴル帝国の勃興:「海によって遮断」され続けた日本


それに対して、「全てが島国」であり、他の国と陸地で一切繋がっていない日本。
歴史的に見て、日本は、ずっとアジアや中国大陸とは「海によって遮断」され続けました。


「海によって遮断」されていても、昔から果敢に海へ船で漕ぎ出して、島と島の間を行き来する人も大勢いました。
大小様々なスケールの船によって、比較的海の深さが浅い日本海〜東シナ海では、古来から往来が活発でした。


そして、平城京・平安京の時代を経て、13世紀は鎌倉時代であり、北条氏が実権を握っていました。
| 王朝名 | 存在時期 |
| 隋 | 581-618年 |
| 唐 | 618年-907年 |
| 宋 | 960年-1279年 |
| 元(大元、最盛期) | 1271-1368年 |
様々な王朝が入れ替わった中国において、大きな変化が起きたのが13世紀でした。



宋の時代と、
元の時代が重なっているけど・・・
元によって宋が押され続けたため、宋の末期と元が勃興する初期が多少重なります。
ここで、異質な大帝国・モンゴル帝国が勃興しました。
中国の民族は多数いますが、隋〜宋は概ね「同じ漢民族の争い」でした。(諸説あり)





我がモンゴル人が
大帝国を作るのだ!
そこに、完全な異民族であるモンゴル人が、一気に乗り込んできました。



ゆけっ!
我が軍は世界最強なり!
そして、中国大陸に巨大すぎる帝国を作りました。
中国内部においては、「異民族」である点で極めて異質であった、モンゴル帝国・大元という国家。
当時の日本にとっても、その勢いは「異質」でありましたが、



なんだか、中国で
強大な国家が生まれたらしい・・・
日本人にとっては、モンゴル人か中国人かは、当時は「どちらでも良い」状況でした。



こんな国家に
攻められたら、大変だな・・・
現代とは異なり、「西に開いていた」日本の国家像。
京・山城中心の世界であった当時の日本で、鎌倉幕府は、「東国の関東から日本を支配」していました。
「西に向かって開いていた」鎌倉期の日本の国家像


モンゴル帝国が勃興して大膨張を続けていた頃、鎌倉幕府執権であった北条時宗。
| 代 | 名前 | 執権在職時期 |
| 1 | 北条時政 | 1203-1205年 |
| 2 | 北条義時 | 1205-1224年 |
| 3 | 北条泰時 | 1224年-1242年 |
| 5 | 北条時頼 | 1246年-1256年 |
| 8 | 北条時宗 | 1268年-1284年 |
| 14 | 北条高時 | 1316年-1326年 |



中国大陸で
強力な国家の元(モンゴル帝国)か・・・
1251年に生まれた北条時宗は、1268年、数え年18歳(現代の17歳)で執権に就任しました。
現代の高校二年生の年で、執権となった北条時宗。



そんな若くて、
執権の職が務まったの?
まだまだ鎌倉幕府の影響力が強く、事実上の「総理大臣格」であった執権。
まだ18歳だった時宗に、総理大臣が務まるはずはなく、



時宗様・・・
我らが補佐しますので、ご安心を
当時、連署などが多数いて合議制だった鎌倉幕府では、多数のベテランが補佐しました。



我が国は西の海に
開いているからな・・・
鎌倉幕府の視線もまた、中心であった西側である「京・山城」に向かわざるを得ない状況でした。
なんといっても、日本において天皇の存在は別格であり続け、中心は「天皇がいる京」でした。



京には
天皇がいらっしゃる・・・
京・山城の視点から見ても、先進国である中国大陸に向かわざるをえず、日本全体が「西向き」でした。



元が攻めてくるとすると、
当然「西から」だのう・・・
当時の執権・時宗にとっては、「何から何まで全て西を向く必要」がありました。


